世界俳句のために

夏石 番矢

「世界俳句」ということばは、平和であると同時に痛ましい。「世界俳句」は、「世界平和」を思い出させるから、平和でりあり、もう一方で、「世界大戦」を思い出させるから、痛ましい。「世界」と「俳句」のあいだには、普通ではない関係があると言わねばならない。
おそらく、西洋世界は19世紀の終わりに、W・G・アストン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、B・H・チェンバレンらの仕事のおかげで、俳句と最初に出会った。ちょうど20世紀はじめ、1902年に、イギリスの日本学者、B・H・チェンバレン(1850~1935)は、「芭蕉と日本の詩的エピグラム」(「日本アジア協会紀要」第30巻、1902年、東京)という題の長い論文を発表した。同じ年、正岡子規(1867~1902)は、日本の俳句の近代化を終えることなく他界した。チェンバレンは、その論文で、日本の古典的俳句について、二つの本質的なことがらを指摘していた。
最初の指摘は、俳句には、「論理的知性に対する」「いかなる主張もないが、想像力または記憶に向けての、三筆でざっと描かれた自然の情景」がある、というものだった。この指摘は、今日でも説得力がある。もちろん、俳句は、詩歌の一種であり、言語芸術の一つだが、その最も顕著な特徴は、イメージを作り出す力にあるだろう。日本でも海外でも、成功した俳句作品は、印象的なイメージを生み出す、としばしば言われる。だから、現代でも、少なくない人々が同時に、俳句を作り俳画を描いているのである。私たちの世界俳句協会は、そのホームページで、月ごとの俳画コンテストを催している。たくさんの国から応募された俳画は、私たちに想像的な多様さを見せてくれている。応募された俳画のそれぞれの美しさを鑑賞しながら、一つの疑問が私に生じる。ときどき私は、俳句の目的は、単にイメージを作り出すだけだろうか、と考え込む。どういうイメージが、俳句にとっても最も望ましいのだろうか? 本当に、俳句は、少ないことばでできた小さい絵なのだろうか? 正岡子規は、チェンバレンと直接の関係はないが、子規の俳句近代化の一つの目的もまた、俳句によって印象鮮明なイメージを作り出すことだった。
この重要な疑問に答えるまえに、次のようなチェンバレンによる俳句についての第二の指摘に触れておいたほうがいいだろう。俳句は、「かけらのそれぞれが、別の角度から風景の小さい一角を映し込んでいる、砕かれた水晶であり、あるいは自然界における事実についての短いメモであり、あるいは感情や幻想の暗示だろう」。そう言いながら、チェンバレンは、俳句をほめあげているのではなく、文学や詩歌としての俳句を否定しているのである。チェンバレンによる文学としての俳句の否定に、私は俳句と西洋世界の危機的な出会いを見出だす。
いま私は、俳句が本当に日本以外の東洋世界に出会ったとは断定できない。中国で、1980年代から、「漢俳」と呼ばれる俳句創作を、中国人が始めたことを知っていたとしても。
また、チェンバレンの俳句否定に話を戻そう。もしも俳句が、ことばによる小さな絵にすぎないのなら、俳句は文学でも、詩歌でもないだろう。いわゆる西洋的文化伝統や価値観にしがみ付いていたチェンバレンは、実際に20世紀を通じて花開いた短詩の可能性を予測できなかった。
俳句の影響を受けて書かれた短詩で、最も有名なのは、たった二行の「地下鉄の駅のなかで」である。

人ごみのなかのそれらの顔の突然の出現
濡れた太い枝に張り付くはなびら
(『大祓(おおはらえ)』、1917年、米国)

エズラ・パウンド(1885~1972)は、この詩を1910年代に、パリで作った。アメリカの「失われた世代」の一人の詩人が、母国以外の国で、短詩を作りえたことは、驚くべき事実である。地下の「駅」は、コンコルドであり、その上には、エジプトのルクソールから運ばれたオベリスクが、いまもそびえ立っている。エズラ・パウンドによる、この記念碑的短詩は、極度に国際的なのである。チェンバレンの厳しい否定とはうらはらに、20世紀はじめから、俳句のような短詩は成功をおさめてきた。このパウンドの短詩から、どういうイメージを受け取れるだろうか。普通の現実的な光景ではなく、私たちに存在論的で神話的ななにかを思い起こさせる、印象的で暗示的な、予期せぬイメージではないだろうか。
1920年代から30年代にかけて、フランスの詩人たちは、俳句創作に夢中になった。たとえば、ダダイスト詩人であり、シュルレアリスト詩人である、ポール・エリュアール(1895~1952)は、たくさんの俳句(俳諧の名のもとに)を、短詩ともども書いた。エリュアールの最も美しい俳句は、1920年に生まれた。

歌う歌に真心こめて
彼女は雪を溶かす
鳥たちの乳母
(『ここに生きるために』、1920年、フランス)

第一次世界大戦に動員され、エリュアールは、俳句に出会った。俳句のような短詩は、詩以外の混ぜ物なしの詩的なイメージそれだけ、というエリュアールの詩の理想であった。彼の俳句自体は、われわれの常識を超えた純粋なイメージとなっている。このイメージは、この短詩いっぱいにはめ込まれた暖かい結晶である。エリュアールの深い存在論の暖かい結晶である。このように何度も何度も、チェンバレンの俳句否定は、詩的エネルギーを充填した短詩によって裏切られてきた。
日本では、1930年代、新興俳句の書き手が、第二次世界大戦中の経験と想像力に基づいて、超現実的な俳句を作り出そうと努力した。渡辺白泉(1913~1969)は、1939年に次の俳句を書いた。

戦争が廊下の奥に立つてゐた
(『白泉句集』、1975年、日本)

まさにパウンドやエリュアールの場合と同じように、白泉の俳句自体、純粋なイメージとなっていた。この純粋イメージは、戦時を反映しているから、現実的であり、このイメージは、日常生活を超えているから、超現実的なのである。
いまこう言うことができるだろう。さまざまな国における20世紀の前半、俳句は、純粋なイメージを作り出す新しい方法を発見した。この方法から、断片的だけれども、詩的なエネルギーが詰められたイメージが生まれ出た。この方法こそ、世界俳句の基盤だ、と私は考えたい。この基盤は、20世紀に、二つの世界大戦をへて、ひそかに誕生した。この基盤が認知されるまで、20世紀の後半すべてが、私たちには必要だった。
それでは、21世紀の世界俳句の可能性とはなんだろうか。これが、私たちの課題なのである。まず最初に私が言っておきたいのは、世界俳句はまだ無限の可能性として孕まれたままだということである。

いくつかの意味深い例をあげてみよう。

フランスのブルターニュで、アラン・ケルヴェルヌ(1945~)は、一種の魂の俳句を書いた。

あかつきのそよかぜ
洗濯の少女が
身震いする
(『ブルターニュ巡礼』、2001年、フランス)

実際にこの俳句から、現実的なイメージを受け取れるが、このイメージは純粋な魂に染めあげられている。この俳句において、人間と自然は、原初的な関係に置かれている。
昨年、私は、ポルトガルの詩人、カジミーロ・ジ・ブリトー(1938~)と、百句からなる連句を巻いた。この連句のなかで、ジ・ブリトーは、英知の詰まったことわざに近い俳句を私に示した。

都市! 砂の
一粒! 銀河の
断片!
(「虚空を貫き 1」、「吟遊」第17号、2003年、日本)

この俳句は典型的だ。その虚無主義的な断定が、宇宙的イメージとともに、虚無主義のあとの励ましを、私たちに与えてくれるからである。
私の講演を終える先立ち、あえて私自身に関することがらに、触れさせていただきたい。この二年間、私は「空飛ぶ法王」と題した俳句連作を行なっている。この創作がいつ終わるのか、自分でも予想がつかない。

空を飛ぶ法王 戦火は跳ねる蚤か

空飛ぶ法王何度も何度も砂を噛む
(「空飛ぶ法王4」、「吟遊」第18号、2003年、日本)

ある日、私の夢で、「空飛ぶ法王」ということばを、私自身がつぶやいた。それから、「空飛ぶ法王」がなにを意味するのかわからずに、「空飛ぶ法王」俳句創作を始めた。「空飛ぶ法王」のイメージは、かなり明瞭だが、キリスト教を茶化したものでしかないかもしれない。
この俳句連作を続けているうちに、とうとう次のことが理解できるようになった。「空飛ぶ法王」という移動する視点から、地球上に起きうるすべての出来事が観察できる。固定されていない、移動する、想像上の視点を、今世紀、私たちは獲得した。
それゆえに、世界俳句は前途有望である。もしも、それぞれの国の俳人が、私たちの新世紀にふさわしい、真に詩的な方法を見つけるのならば。

世界俳句協会編『世界俳句2005』(西田書店、2004年)所収。

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