夏石番矢句集『猟常記』を読む

Reading Ban’ya Natsuishi’s Haiku Collection “Ryojo-ki”

夏石番矢句集『猟常記』を読む

ryojoki

夏石番矢句集『猟常記』、静地社、東京、1983年2月28日刊
Ban’ya Natsuishi, Haiku Collection “Ryojo-ki”, Seichi-sha, Tokyo, February 1983
Izumi KANEKO
金子 泉

 

1 はじめに
初期の夏石番矢氏の俳句は詰屈で難解、既成の俳句の枠を破るために、身中の黒いマグマを爆発させるようなエネルギーが感じられる。かつて一〇〇人程の俳人の代表作が網羅してあるアンソロジーを読んだ時、『猟常記』『メトロポリティック』『真空律』など、氏の俳句が目に止まった。その時の衝撃は大きく、現在の私の俳句創作に大きく影響を及ぼしていると思っている。
夏石番矢全句集『越境紀行』(2001年10月、沖積舎)に挟み込まれていた栞には、飯島耕一氏のメッセージが寄稿されていたが、その中に次のような記述がある。
わたしは江戸俳諧、なかでも其角が眼中にある。今日の俳人では東の加藤郁也、西の岡井省二の句を好む。滑稽と色好みとスケール感と「へそ曲がり」。草の戸に我は蓼くふという反骨だ。この全句集の前半には右の徳目につらなる精神が旺盛だった。

今回取り上げる『猟常記』(1983年2月、静地社)は夏石番矢氏の第一句集である。『真空律』『神々のフーガ』など後続の句集で扱われるテーマの萌芽も窺える。
句集には、高柳重信と芳賀徹、両氏とも夏石氏の師なのだが、彼等からの激励、賛辞が収録されている。高柳は「未知なる『俳句』を求めて彷徨する」希少な俳人として、芳賀は「ゴーガンやランボーがよみがえって」きたような「野獣のごとき俳人」として夏石を評価している。本稿では、二人の解説の恩恵を多分に受けているといえるので断っておく。

2 全体の印象、タイトル、構成
印象批評ではあるが「猟常記」を俯瞰してみると、子規よりも芭蕉よりも古代に遡及しつつ、言葉の再構築、神話の再構築を行っていったと考えられる。
天への志向や鳥・虫への親近感はアニミズムのストレートな表出であり、古代への志向の一端といえる。同時に視野の狭い日本崇拝を脱却してより全世界的に普遍的な古代への憧憬、古代礼賛が謳われているようだ。
また、言葉の上での挑戦的な試みが行われている。俳句にとって皮肉、韜晦、諧謔は欠かせない重要な要素だが、『猟常記』は、より独自の言葉のあやを追及し続けた軌跡ともなっている。
『猟常記』というタイトルは、『日本霊異記』に由来するという。『日本霊異記』は、平安時代に成立した日本最古の仏教説話集。善行、悪行、それぞれ相応の報いが来世でなく現世の内に跳ね返ってくるという因果応報が大きなテーマとなっており、他に人が獣と結婚する異類婚姻譚や妖怪譚も含まれている。「猟常」とは、「霊異」をもじったものだろうが、常を猟ると読めば、フィクションよりも奇々怪々な日常の世界を題材として追いかけるという宣言にも受け取ることができよう。
句集の構成は大きく分けると六章からなり、第六章の「猟常記」は更に次の四つの作品群「穂絮の国」「呆悦の国」「弩(いしゆみ)の国」「喪心の国」に分けられる。

3 気になる句、印象に残った句
前章では句集全体の印象を述べてきたが、ここでは印象に強く残った句を一つずつ挙げ、感想など述べていきたい。何か読みの可能性を広げるヒントになるものがあれば幸いである。

降る雪を仰げば昇天する如し

「非鳥汎游」では、雪や虹、花火、蜘蛛の糸、鳥、虫など天空や空を飛ぶものへの志向が窺える。天空への志向は、詠み手が天地創造もなしうる神になりたいという欲望を思わせる。
「降る雪を」は句集の第一句目。天を仰げば、無数の雪片が絶えず落ちてくる。「昇天」という言葉によって、雪が圧倒的な力を以て視界に迫ってくるさまを鮮やかに切り取っている。

赤富士の裾野へ落つる飛魚よ

読んで忽ち映像が浮かぶ作品。飛魚の動きは、飛翔と墜落とを象徴していると考えられる。赤富士の山頂高く飛び上がり、裾野へ落下する大胆不敵な飛魚は、詠み手自身の戯画化なのか。

樹より降る蛭も昔の友なりき

密林で不意に出くわしてしまった蛭に、詠み手は親近感を抱いている。蛭も古くから森の住人であり、詠み手は古代の平和な森を夢想し、懐かしむ気持ちの強さを逆説的に表現したかったのだろう。

澄む虚空(そら)の鳶の頭に宿る虫

空高く舞う鳶の頭にいる虫まで見える。そんな視点を持つものは誰だろう。詠み手はやはり神になりたいのか?

谷空の鳥への投石続くなり

大空を自由に飛翔する鳥に苛立ちをぶつけている者がいる。詠み手の強い天上志向が表れている。投石という動作からは、力強さと幼さと二つのイメージが想起できる。

羽毛乗るcercle(だうだう) vicieux(めぐり )の一葉舟

危なげに流れを辿ってゆくひとひらの舟も、そこに乗る小さな羽毛も、人生を象徴しているのだと考えられる。俳句界に乗り込んでいく一俳人のささやかな諧謔。

家ぬちを濡羽の燕暴れけり

若者のエネルギー、攻撃的な衝動や性的衝動の発露を表現している。燕のけたたましい羽ばたきとでも言ったらいいのか、激しさが映像としてよく伝わってくる。

虫を祭れる船や音なく燃え盛る
葦原の 合掌の 船長の 大きな肘よ
朝日夕日も見えざる河口を母と呼ぶ

「酩酊船焼失」では古代日本の神話を想起させる句もあり『真空律』のイメージへと通じている。
「非鳥汎游」に描かれていたのは天空と地上の間に視点を据えた世界。この句からは海と陸、間にある河口へと、視点が変わっている。船が焼失し船長は沖へ、という展開が高柳重信の作品にあったと記憶しているが、ここでは母なる河口へと向かう。この章では父母へ故郷へ古代へ回帰するという志向が強調されている。

泳ぐかなからくれなゐの形代と

一切の厄災を託されて流れている形代。くれないなのは血で染まっているからなのか。詠み手の意識は形代に寄り添っている。規格外であると判断され捨てられるヒルコではないが、私も一切の受難を受け止めて流れていくのだ、いく分特別な存在なのだと言いたげでもある。

なまぬるき滝たちならぶわが前線

私の前に立ちはだかるのは滝だが、なまぬるい。2004年、球界への新規参入に立ちはだかったのは、既得権益を守る為なのか内部で凝り固まっていて話の通じないおじさん達。「猟常記」を引っさげて俳壇への新規参入、所謂俳壇の大御所であるおじさん達はどういう反応を見せたのか。

階段を突き落とされて虹となる

不意に殴られて火花が出る、というイメージと近い。天を仰いで昇天するイメージを抱いた詠み手は、墜落の衝撃にも恍惚のイメージを鮮やかに喚起する虹を配置した。

水際に蛇紋を纏ふ母を見き

池や湖沼に女の龍がいるという設定は各国の説話などに見られるらしい。いずれは天上にいる父の元へ昇るのだが、今は地上にいる母の元で癒され、英気を養う龍の子のさまを思い浮かべるのは飛躍が過ぎるだろうか。

乾(ひ)反葉(ぞり ば)も巨(こ)海(かい)を航(ゆ)くやわが忌日

一葉舟が水面を漂う映像はこの句でも繰り返される。

伏せば硝煙立てば乳の香わが半島
振り回す獣(しし)も袋や巌の原
la(に) Revolution(つぽんか) japonaise(くめい) 無し 濤の秀(ほ)を打つ霰
戦前の岬に蝙蝠傘が立つ

「反舌篇」では、言葉のあや、諧謔が強調された展開になっている。既成の価値、秩序の転倒を図っている印象が強い。

さう囁くは獅子頭山羊身龍尾の主か

靡靡教とは、お上に靡け、共同体の慣習に靡けという悪しき教えのことでは、と勝手に想像してしまった。この句を読むと、悪魔が囁くという言葉を連想するが、悪魔は敵か、味方なのか。

祭壇の一穴よりの青葉騒

未知なる俳句を希求する夏石番矢は、「異形の他者を招来しようとしてせりあがった虚空の祭壇でありたい」と句集「メトロポリティック」のあとがきに書いている。共同体からはみ出た者に見えてくる世界を描こうとして生まれる俳句を象徴しているように思える。

裏山に投げ捨てられたる歯が繁る

葉ならぬ歯が繁る。言論統制のもとで抜かれたのか、捨てられてしまった夥しい歯が今にも声をあげそうな光景。野に転がるしゃれこうべが歌を歌い出すイメージを連想できる。

曼荼羅を敷き臥し繭となりはつる

祭壇に羽化を待つ繭が置かれている光景は、「酩酊船焼失」に出てくる虫を祭れる船のイメージと重なる。再び船を出す機会を窺いながら繭は眠る。

雷(いかづち)の婚(くな)ぎの恩寵(がらさ)や大八州

「Paraphysica」より。イザナギとイザナミの神が交わり、国生みを行ってできたのが日本だという神話の再現。詠み手は古代に遡って、もう一度自らの手で日本神話を書く強い欲求を持っている。

壜の中二隻ののえの箱舟(あるか)かな

ノアの箱舟が壜の中に納まっているという諧謔。

水無月の水際の母の光背(あうれよら)

水際にいる母のイメージが再び出現している。龍女もマリアも母なのである。

殉教者(まるちる)やほととぎすの巣の絶対湿度

ほととぎすの巣の絶対湿度とは、閉塞状況に陥っている俳壇をさしていると考えられる。殉教者とは、ほととぎすの信者のことなのか。

秀句(すく)を吟ずる雪花(あらば)石膏(すとろ)の髑髏(ひとがしら)

抜かれた歯が繁るイメージのバリエーションだと考えられる。

朝は来たらず 母を囲める蛇・蝦(かへる)

「葛と藤の国」より。女性の周りを蛇や蝦が囲むという設定は、泉鏡花の『高野聖』を想起させる。母のいる朝日の射さない薄暗い場所とは、胎内のようでもある。

村村の夏の鳥居を抱くなり

故郷への親近感が描かれた句。

降る雪や野には舌持つ髑髏(ひとがしら)

「弩の国」より。ここでも喋る髑髏が登場している。

花食ふ我へ大百(だいびやく)牛車(ぎつしや)来たりけり

「喪心の国」より。狂気に陥った「我」を何百台もの牛車で迎えにくるのは天上の兵卒なのか。芥川龍之介の作品にも登場する夭折の天才ラディゲであったか、狂気の人となって天使の兵卒が私を迎えにきているといったらしい。喪心とはこの「我」なのか、それとも「我」に眉をひそめる物言わぬ群集なのか。

夕立や轡並べて駆け出す死

第一句の昇天と同じく、最終章の末尾においても天と死との取り合わせが繰り返し登場した。若者の生の衝動と死への衝動とは背中合わせである。夕立の勢いと、荒馬が駆け出すような勢いの描写で死を修飾した美しい表現で、この一大叙事詩は幕を閉じる。

4 おわりに
夏石番矢氏は句集『漂流』(『夏石番矢全句集 越境紀行』、2001年10月、所収)のあとがきで次のように述べている。

俳人とは本来、共同体に埋没できずに、詩的真理を求めて心身ともにさすらう人間を意味していたはずである。

氏は、その漂流の原点といえる「猟常記」以後、日本神道を育んだ森へ、アジアへ、ヨーロッパへと神や祭礼を、普遍的な古代を求めて踏査してきた。その成果が俳句創作に反映されているのだが、現在も未知なる俳句を求めての彷徨が続く。

*今回作品の引用は『夏石番矢全句集 越境紀行』(2001年10月、沖積舎)から行った。
(「吟遊」第25号、吟遊社、2005年1月20日刊)