鎌倉佐弓作品における起承転結と対句について

Hideki ISHIKURA

石倉 秀樹

ひとりの俳人のあまたの句は、渦巻き星雲の星々のようであるだろう。核心に濃密に迫る星々と縁辺に散在する疎星。わたしがここに挙げる数句は、縁辺の疎星で、鎌倉佐弓さんの俳句の宇宙にあってはきっと、その中心にあるものではないかもしれない。しかし、「吟遊27号」のために詠まれた次の句は、わたしの度肝を抜いた。

猫を屋根に月をひがしに我が夫  佐弓

この句を読んでああ蕪村だと思う人は少なくないだろう。

なの花や月は東に日は西に    蕪村

そして、鎌倉さんの句と蕪村の句とどちらがよいかと質問すれば、蕪村だと答える人もいるだろう。パロディーがオリジナルを凌ぐことは難しい。パロディーは、どうでもよい作をパロってみても意味がなく、人口に膾炙するほどの作を下敷きにする必要がある。そして、想像力に余裕のない読者は、パロディーだと気が付いた瞬間に、オリジナルに心を奪われてしまう。パロディーは美人の顔に投げつけられたトマトである。多くの読者は、そのトマトの色鮮やかな紅に心を惹かれるよりも、それによって汚された美貌を惜しむ。

しかし、ここで重要なのは、「猫を屋根に」を「なの花」の単なるパロディーと片付けてよいかどうかということだ。蕪村の「月は東に日は西に」は見事に対句である。ただし、漢詩では、このような型どおりの対が、型に嵌まって平板になってしまう場合は、合掌対と呼んで珍重されない。一方、鎌倉作品の「猫を屋根に月をひがしに」は、対応が緩い対句的表現。漢詩では、このような対はうまくいけば詩的効果が高いものとなり、その場合は絶妙のものとされる。
この二句、ともに「月が東」の空にあるということと、俳句ではあまり用いられることがない対句表現が句の景となっていることが共通している。そこで、後から詠まれた鎌倉作をパロディーだと思ってしまうのだが、この二句には無視しえない違いがある。蕪村作では「菜の花」が、日や月とともに、眼前の風景という同じ次元のなかで溶け合っている。これに対し、鎌倉作では、屋根の猫と東天の月は同じ景のなかに想像できるが、「わが夫」は、どこで何をしているのかということが伏せられており、わからない。そして、この違いによって二句がどう違うかということを、これらの句をもとに絶句を詠んでみることで、確かめることができた。鎌倉作は、

屋頂猫鳴懶,東天望月昇。夫君何處醉,昨夜等三更。

屋上でものうげに猫が鳴き、東の空には満月が昇る。夫はどこで酔っているのだろう。昨夜は真夜中まで待った、という詩になった。夫がどこで何をしているかということと、夫の帰りを待つわたしが何を想っているかは、原作には詠まれていない。そこは絶句に仕立て直すためにわたしが補ったことだ。原作は、「猫は」ではなく「猫を」といい、「月は」ではなく「月を」と言っている。だから、「我が夫」は、「猫」と「月」を対象として何かをしているのであり、わたしが鎌倉さんのご主人を酒屋に送り込んだのは、原作に忠実な詩作りとはいえない。本来は、絵を描いているご主人あたりを絶句に詠み込むべきである。しかし、いずれにしても、ご主人が何をしているのかは、読者の想像に任されているのである。俳句は、「省略の文学」ということが説かれるが、絶句にしてみるとそれがよくわかる。鎌倉作では、起承転結の転句の一部と結句の全部が削られ、省略されて、その部分を読者の想像力に委ねている。

屋頂懶猫鳴,東天望月昇。夫君○○○,○○○○。

一方、蕪村の作はどうか。

夕暮黄黄油采花,明月東天日西霞。

夕暮に黄黄たり菜の花、明月は東の空に日は西の霞に、という七言絶句の二句を作ることができた。しかし、蕪村の方はこれ以上に読者の想像力に働きかけるところがない。そこで、詩を作ろうにも、起承までは作ることができるが、転結が書けない。つまり、蕪村の作は、二句一章で終わってしまっている。転結は「省略」され、削られたのではなく、はじめから無い。
さて、「二句一章」という言葉は、もともとは漢詩作りの術語だが、俳句作りの術語としても大いに活用されている。しかし、その「章句」理解は、「や」「けり」などで切れば二句になるという安易なところに留まっているようだ。そして、「二句一章」とすればそれで一篇の詩。だから、「俳句は世界最短の詩」というようなことが説かれる。しかし、漢詩では、起承二句一章と転結二句一章の「二章一篇」で初めて詩であり、絶句である。
そこで、漢詩人のわたしは、起承を詠み、転結にまで踏み込んでいる鎌倉作品は、読者の想像力を鮮明に生かすという俳句の長所を生かしつつ、詩と呼べるものとなっていることに瞠目する。端的にいえば、蕪村の作品を凌いで、詩であるのだ。
蕪村は、自身が佳作と思うものには朱の合点を残したが、「なの花」は無印。蕪村自身も、「なの花」に何が不足しているかをよく承知していたのだろう。
ついでにいえば蕪村には俳詩があり、それらの作品は日本の近代詩・現代詩の魁とされている。しかし、その俳詩のなかの五言絶句の部分を見れば、蕪村には平仄の知識がまるでなかったことが明らかである。芭蕉にしても蕪村にしても、なかば神格化された俳人は、その作品の欠陥が指摘されることはあまりない。神格化され、その欠陥が指摘されることがなくなった作品は、もはや文学の対象とはなりえない。だから、あえて蕪村の漢詩理解に触れておく。
また、漢詩との比較で見れば、二句一章をもって詩とするためには、起承にしかならない二句を一章としてはならないと思う。起と転、承と転、起と結あるいは承と結とすることが求められているのではないのか。これによって初めて起か承を削り、転か結を削ることになり、省略の文学、詩としての俳句となるのではないか。そこで、俳句を詩とするための術語としては、二句一章ではなく、一句二章といったほうがよいと思う。鎌倉作では、「猫を屋根に月をひがしに」が一章、「我が夫」が一章。

「猫は屋根に」にしても「なの花」にしても、漢詩の本領ともいえる「対句」が俳句に取り入れられているのだが、鎌倉作品に、次の句もある。

我は汝を想う星は星をおもうや

漢詩を書くわたしには、対句表現をめぐってあれこれ思いがめぐる句だ。この句は、AはBに対してXである、CはCに対してXであるか、という構造になっている。これに対し漢詩の対句は、AはBに対してXである、CはDに対してYである、と詠む。簡略化すれば、AはBに、CはDに、というのが対句。そこで、漢詩風の対句で詠めば、

我は汝を想う月は星をおもうや

となる。しかし、鎌倉作品のミソは、AにB、CにDではなくCにCであり、そのことで、単純な対句が多元化される面白い効果が生まれている。
CとCであるから、AとBは、A=E B=Eということを踏まえていることが暗示される。つまり、星と星との関係が、我と汝の関係に照応し、我と汝は、人と人、ということになる。
また、AとBであるから、CとCにもC=A C=Bという関係が暗示される。星である我と星である汝。どちらの星が我で、どちらが汝かはわからない。ただ、我・汝・星がたがいに照らしあうということが起こり、我は汝ではない、星ではない。ということで、星は汝である、ということになる。

我は汝を想う汝は我をおもうや

このようにして、我と星との距離と、我と汝の距離が符合する、ということにもなっているのである。つまりこの句では、論理が鏡のように機能していて、上述の関係以外のことにも、あれこれが暗示されている。そこで、C=Cは、対句としては破格だが、かえって巧妙に仕掛けられた対句、ということになる。
また、さらには、鎌倉作品を挙げれば

永遠が見えそう枯木立ゆけば     鎌倉佐弓
未来より滝を吹き割る風来る      夏石番矢

この二句は、対句のように響きあっている。
未来に対して永遠、全部である永遠とその一部である未来。
滝に対して枯木立、また夏と冬。
向こうから来る風に対し、こちらから行く人。

江戸・明治の俳諧・俳句が漢詩から多くの滋養を吸収してきたとしても、俳句には俳句として発展してきた部分が少なからずある。そこで、漢詩の尺度のみで俳句を評価することにはおのずから限界があるし、鎌倉作品の多くの佳作にしても、漢詩に仕立て直せば、起句だけとしかならない作品も少なくないのかも知れない。むしろ、鎌倉俳句の銀河の核心を占める多くの星々は、そういう作であるかも知れない。起句だけでも、読者の想像力がそこで停止してしまわない句は、立派に詩であることを忘れてはならない。読者の想像力がさらに動けば、承転結を、読者が補うことができるからだ。そこで、余談だが、

城は春 国破れても山河あり

杜甫の五言律詩「春望」をもとに定型で詠んだ拙作である。これを漢語に翻訳し直せば、七言詩の一句になる。

城春国破山河在

さらに、この句を二句一章に展開すれば、

国破山河在,城春草木深。
国破れて山河あり、城春にして草木深し

ここで思うのに、もし杜甫が「城春国破山河在」とだけ詠んで筆を置いたとすれば、世界で最初の俳人になれたのではないか。蕪村の句は、起承の二句一章で終わってしまっているが、それでも俳句として受け容れられているのであれば、二句一章の「城は春 国は破れて山河あり」もまた俳句。しかし、そこで終えることができなかった杜甫は、さらに六句を書き足して四章の律詩とし、世界初の俳人となる機会を失った。