正岡子規の俳句友だち

――河東碧梧桐と高浜虚子を中心に
夏石 番矢

1 正岡子規にとっての松山

四国の松山は、私にとってなつかしい場所である。一九九一年に、テレビ出演二回目にして、松山城のてっぺんから、小説家の胡桃沢耕史、漫画家の内田春菊、評論家の呉智英、俳人の松本恭子、司会は福留功男といった、奇想天外な組み合わせで、実況生放送の句会を行なった。選者役は、まだ三十代だった私が勤め、本丸へ登ってきた観光客に好奇の目で眺められながら、紅白の幕のなかで、肩ががちがちに凝るほど緊張しながら、なんとか数時間の番組を終えた。途中で、マイクの音声が途切れたり、緊張のあまり、私がなめらかに発言できなかったりしたことはあったが……
しかし当時、NHK松山の、とびきり若い六山ディレクターがこのように大胆な企画を立て、それが実現したことは、現在は高齢者ばかりがテレビ出演するNHKの俳句番組では考えられない。それだけ、俳句も、日本も、老化してしまったということだろうか。
高齢化社会が来ることは、つまりはお年寄りが長生きできるわけだから、大変よろこばしいのは無論だし、ヨーロッパの先進国は、ずっと前からそうなっている。私が二年暮らしたフランスも、以前から高齢化を迎えていた。けれども、お年寄りは、自立して暮らしており、たとえば、買いだめした、食料などの日用品を入れた、重い買いものかごも、男女を問わずひとりで、かごに付いた小さい車の助けを借りて歩道を転がし、店から自宅アパートまで、持ち帰っていた。それがごく自然な光景だった。
日本のように、高齢化が進んだことにとまどってばかりいて、社会全体が、まっとうな対策が立てられず、いたずらに硬直化し、そのうえ柔軟な発想を認めなくなるのは、決して先進国として望ましくないのは、言うまでもないことである。
話をもとに戻すと、実を言えば、この番組出演のときが、松山への最初の旅だった。この五月の松山訪問は、うれしいことに晴天に恵まれた。お城の堀端の栴檀の薄紫の花が、小さいながらも、とても印象的だった。また、木々の青葉若葉、日の光ののびやかさ、風の穏やかさも、快い印象として残っている。

春や昔十五万石の城下哉

『寒山落木』明治二十八年(一八九五年)の「春時候雑」に収められているこの、正岡子規による、のどかな俳句を、私は俳句初学の十代のころより、ひそかな愛唱句としてきた。同じ瀬戸内の姫路の中学と高校に通っていた私は、この「城下」を、姫路に置き換えて、どこかしっくりしない気持ちを抱えながら、納得しようとしていた。いや、納得したと思い込もうとしていた。
松山を訪れ、その城下町を初めて訪れてみて、やがて南国松山のくつろぎこそが、子規がこの俳句で訴えたかったのだとわかった。姫路では、町が大き過ぎ、お城が大作りであり、気候もまだうすら寒いのである。

子規は、同年四月二十四日に、

春や昔古白といへる男あり

を作り、『寒山落木』の、先ほどの句の少し前に、入れている。このころ子規は、「昔」をよほど振り返っていたにちがいない。
調べてみると、のどかな春の城下町を詠んだ明治二十八年は、いまから百六年前であり、この一八九五年、子規は、日清戦争に従軍する途中、覚悟を決めて三月中旬に一時帰郷し、墓参している。
「十五万石の城下」は、もちろんお手軽な観光俳句ではなく、自分の生まれ育った松山を、短い俳句によってまとめあげ、戦死すら予想していただけに、ひいては松山への別れの俳句であってもよいと考えていたのではないだろうか。
「はるやむかし」の六音の出だしが、通常の五音の出だしより、いっそうのどかさをつのらせて効果的だ。こののどかさこそは、死をも折り込みずみの正岡子規にとっての、松山そのものだったように思える。
中規模の、穏やかで、権威主義的ではない、文化的な町、松山。

2 「常春(とこはる)」の松山人、子規と碧梧桐

松山原人という、新種の原人が、発掘品の捏造でもしないかぎり、存在するわけはないだろう。かりに日本に、明石原人がいたとしても、現在の日本人の祖先ではないようだ。北京原人がたぶん、現在の中国人の祖先ではないように。また、ネアンデルタール人が、現在のヨーロッパ人の祖先ではないように。日本人は、北から南から、あちらこちらからやってきた人間たちの混血から生まれた民族にすぎない。
それでも、松山に生まれ育った人々の性格には、やはり共通の特徴があるようだ。
ここに、新聞記事の切り抜きがある。読売新聞の今年の三月八日夕刊の「旅」というコラム。カラー写真で、道後温泉と松山城を紹介し、市原尚士記者の署名入りの文章に、こんなくだりがある。

天災が少なく、気候も温暖な松山に住む人は、どうも性格も温和な人が多いようだ。
(中略)
未来のみを見つめた楽天家。これほど、松山人の明るさとゆとりをうまく言い当てた言葉があるだろうか。

これは、現在も私につきあっていただいている松山の諸俳人の性格にぴったりあてはまる。やはり、うれしいことに松山は松山なのである。
正岡子規が、河東碧梧桐にあてて送った俳句に、

寒からう痒からう人に逢ひたからう

という、のちの自由律俳句の先触れのような一句がある。この俳句は、明治三十年(一八九七年)に、碧梧桐が、天然痘にかかって入院するのに、子規がお見舞いとして作ったものだ。
二年前の日清戦争従軍の帰路さらに喀血し、病床から離れられなくなった重病人の正岡子規から、天然痘の新米病人の河東碧梧桐への、実にまこごろのこもった、しかも明るい挨拶俳句である。
ここにまず、典型的に明るく、楽天的な松山人、正岡子規のありようを、見て取ってよいだろう。なんと子規は、この五年後に他界するのである。
ところで、河東碧梧桐と高浜虚子の二人の後輩のうち、碧梧桐の俳句の才能を、より高く評価していたことは、よく知られている。
河東碧梧桐の全集が、正規の出版社から刊行されいてない現在、私は全句集を持っていても、碧梧桐の全貌を知らないとしか言えない。財政豊かな愛媛県が、賞金額だけ大きい俳句の賞に、選考結果も明確にせず、精力を浪費するよりも、河東碧梧桐の全集を、一日も早く発刊されることを切望する。
それはさておき、私は碧梧桐の俳句のうち、

我が踏むこの石このかけらローマの春の人々よ

が、とくに好きだ。
大正十年(一九二一年)に、欧米旅行のさいに、古代ローマ帝国の首都あとで詠まれた一句である。
おもしろいことに、この長い俳句は、春の松山を、従軍直前に必死で詠んだ正岡子規の俳句を思わせてならない。
子規の句の「城下」と、碧梧桐の句の「ローマ」の「石」。そして、偶然にも両句とも、季節は「春」である。
さらに、子規の、最初のフレーズには六音の破調。自分の傘下の俳人たちから、自由律俳句出現後の碧梧桐の句は、四・四・五・七・五音。
子規も、碧梧桐も、のちの高浜虚子によって固定される「有季定型」の窮屈さを、のびのびと松山人らしく超えて、自分の思いを十分詠み切っている。その見事さよ。
碧梧桐の俳句の、「春の人々」とは、碧梧桐滞在時のーマで見かけられた人々、そして古代ローマ全盛期の人々を表わし、そしてほんとうのところは、南国松山の人々のことを、思い出して表現しているのではないだろうか。
「常夏」にひっかけて、松山の人々を、ついつい「常春(とこはる)の人々」と呼んでみたい気になる。

3 虚子の過剰防衛、碧梧桐の淡白

日本が、バブル経済の、奢りの夢に、つかのま酔いしれていた一九八〇年代、「高浜虚子へ帰れ」という号令が、起床ラッパのように、日本の俳句界に鳴り響いた。
私は、子規や碧梧桐の俳句と同じように、虚子の句にも十代のころより親しみ、愛唱句が少なくないが、右へならへの号令をなによりも、当時憎んだ。
バブル期の日本俳壇で利用された高浜虚子もまた、松山市内を幼いころ、離れたとしても、松山人であることは疑いない。おだやかな松山の大空が下敷きになった俳句を、松山を離れ首都圏で暮らした虚子は、つねに追い求めた。

大空に又わき出でし小鳥かな 一九〇六年
大空に羽子の白妙とどまれり 一九三五年
浅き春空のみどりもやゝ薄く 一九四六年
ほどけゆく一塊の雲秋の空 一九五七年

虚子は、決して過激な人ではない。また、勇敢な人ではない。だから、温和な人間が、はからずも俳壇のリーダーになったとき、新しい流動的な状況や、個性的な人間に対しては、おびえて、過剰防衛してしまう。
虚子は、自己防衛本能が人一倍発達しているだけに、明治二十八年(一八九五年)、正岡子規から、俳句の後継者に要請されたとき、拒絶してしまう。
後年、杉田久女や日野草城を、「ほととぎす」同人から除名したのもまた、自己防衛本能からであろう。
もともと温和で、煮え切らなず、自己防衛的な性格も、松山人の長所でもあり、短所でもある。虚子にあらわれた、この特徴を正岡子規は、熟知しており、若いころより、真剣に忠告していた。
これに対して、碧梧桐は、冒険的で、才気にあふれていた。しかし、温和で粘り強さに欠ける。したがって、碧梧桐は、あっさりと昭和八年(一九三三年)、俳壇を引退したのである。
この碧梧桐の性格も、松山人的なキャラクターだろう。このことも、正岡子規は明確に知っていたようだ。

4 「常春(とこはる)」の豊かな人間関係

正岡子規の残した俳句のうち、私は、

月一輪星無数空緑なり

という、明治三十年(一八九七年)作の一句を、こよなく愛する。これは、単なる写実の俳句でもなく、また単なる空想の俳句でもなく、すなわち『俳諧大要』で子規が俳句の究極として想定した「非空非実」の観点から生み出された名句だ。おそらく、痛み止めのモルヒネを打たれて、なかば夢うつつの正岡子規が、生命の本質を、ふと短いことばでつかんだ、そういう俳句である。
この俳句の英訳は、次のとおりである。この英訳は、私とアメリカ人翻訳家エリック・セランドの共訳。

Around the lone moon
countless stars
the sky now green

この俳句を、日本語と英語で、昨年八月末に英国のロンドンで開催された、世界俳句フェスティバル二〇〇〇で紹介したところ、日本(これも正岡子規の遺徳のおかげだろう。日本からは、相原左義長ら、松山からの参加者が最も多かった)と英国はもとより、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スロベニア、ハンガリーなどから、参加した俳人や研究者たちからよい反応が返ってきた。
私は、宇宙にも、月や星という生命があふれ、天空全体に、地上の緑までが、なだれこんでいるのは、写実を超えた、宇宙の本質把握が、子規によってなされているためだと、英語で説いた。
真夏というよりは、永遠の春、「常春(とこはる)」の緑を、子規はこの句でしっかりつかんだ。
瀕死の病床にありながら、生命への積極的な意志を持ち続けた正岡子規。そこに私は、松山人の楽天性が基盤になってできた、美しく、柔軟で強固な、新しい人格の出現を見る。
この奇跡的な病人に、碧梧桐、子規、内藤鳴雪などの近代俳人のみならず、伊藤左千夫、岡麓などの、近代短歌の育成者たちが、集まってきても、何の不思議も感じない。あるいは、英国留学中の、のちの小説家、夏目漱石が、深い友情を子規に対して、海を超えて抱き続けたことも、当然のこととして受けとめられる。
近代日本において、文学以外のジャンルで頭角を表わす人々、たとえば、ジャーナリストの草分けであり、子規のパトロンでもあった陸羯南、洋画の中村不折、数学の寺田寅彦などが、自然に寄り来たるのも、自然にうなずける。
この永遠の青春、「常春」を生きた子規は、絶えることのない、のびやかな「常春」の豊かな人間関係を、百年のときをへだてても、私たちに、にこやかに示してくれているのである。

季刊「子規博だより」Vol20-4(松山市立子規記念博物館、2001年)所収。

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