「世界最短の詩」をめぐって

About “the Shortest Poem in the World”

Hideki ISHIKURA
石倉 秀樹

2005年9月19日、インターネットのGoogleで「世界最短の詩」という言葉を検索してみたら、52件のヒットがあった。ほとんどが俳句もしくはHAIKUに関わる記事だった。このことから、わが国では、「世界最短の詩」といえば俳句だということが常識化されていることがわかる。
詩の長短は、何を基準に計ればよいのか、わたしにはよくわからない。しかし、多くの記事が、俳句の五七五をもって「最短」としているようだ。「俳句は世界最短の詩」と最初に言ったのは誰なのか。そして、もしその人が俳句17字をもって世界最短といったのだとしたら、その説がいっこうに訂正されることがないのはなぜなのか。
中国に「十六字令」という詞がある。中国では「詞」を「詩」と呼ぶことはない。しかし詞は、字数に定めがあり、押韻もし、平仄もありの定型の韻文であるから、俳句を世界最短の「詩」とするなら、詞も「詩」である。この意味での「詩」を中国では「詩詞」とよぶ。そして「十六字令」は、俳句よりも1字少ない16字16音節の詞だ。

宋代の蔡伸の作に、
天,休使圓蟾照客眠。人何在,桂影自嬋娟。
現代の毛沢東の作に、
山,快馬加鞭未下鞍。驚回首,離天三尺三。

「十六字令」の詞譜は、
☆。▲●○○●●☆。○○●,▲●●○☆(または○○▲●☆:毛沢東の作)。
○は平声、●は仄声の語で詠まねばならない箇所、▲は応仄可平、すなわち仄声で詠む方がよいが平声でもよい箇所、☆は平声で押韻しなければならないことを示す。
「十六字令」といえば、蔡伸の作が多くの詞の入門書に引用されているが、毛沢東の作も素晴らしい。毛沢東は、今日の中国を築いた偉大なリーダーであっただけでなく、20世紀の中国詩を代表する詩人のひとりでもあった。
そして、2005年9月19日の時点で、日本人が書いてインターネット上に公表されているもっとも新しい「十六字令」はといえば、

蛍。雨後黄昏草満庭。懐童處,蕩蕩一燈青。

ではないだろうか。作者はだれかといえば、わたしが所属する漢詩結社葛飾吟社の高橋香雪さん。
さらに、詞には「竹枝」という14字のものもある。皇甫松という人の作に

山頭桃花(竹枝)谷底杏(女児)。兩花窈窕(竹枝)遙相映(女児)。

ここで(竹枝)と(女児)は「和声」といって、定型の合いの手である。これを除く14字を填める。2字目を平声とするほかは平仄不問、平声押韻・仄声押韻の二体がある。
しかし、この「竹枝」14字がもっとも短いかというと、中国には、12字の定型詩もある。「神智体詩」といい、蘇軾が初めて書いた。ただ、この詩体は、文字は12だが、読めば七言絶句28音節になる。

神智体:亭景画,老□○。首雲暮,江△峰。

読み :長亭短景無人画,老大横□痩竹○。
回首斷雲斜日暮,曲江倒△側山峰。
□=手へん+施-方 ○=竹+叩-口+工
△=草かんむり+酉+焦

□○△の意味は適当に読みとばしてください。この詩、起句は「亭景画」の3字。これを「亭」は縱に長く、「景」は縱を短く書くところがミソ。そして、どう読むかというと、「長亭短景無人画」と読む。
以下、紙幅の都合もあり説明を省略するが、文字を長めに書いたり短めに書いたり、斜めに書いたり逆さまに書いたり、さらには左右を逆に回転させたりして、3字1句×4の12字をそれぞれ7字7音節に読んで、7字×4の七言絶句にする。「暮」という字のなかの「日」の部分を斜めに書けば「斜日暮」という読みになる。ちなみにこの詩は、遼の国から宋にやってきた使者が、蛮夷の出身であるのに博聞多識、漢詩を書くのも上手だと知って、蘇軾が、この詩を読めるかと示したものであるとか。
中国詩には、さらに字数の少ない定型もある。十字回文詩。上海の葉秀山という人がこれを書いている。小生、秀樹。秀山と秀樹。山があれば樹もあるだろうというご縁でわたしも追随させていただいた。

人愚忘      吾呑酒笑笑人愚
笑   欲     笑笑人愚忘欲無
笑   無     無欲忘愚人笑笑
酒呑吾      愚人笑笑酒呑吾

拙作、左が十字回文詩であり、右が読みである。つまり、七言絶句体である。読み下せば、

われ酒を呑んで笑う 笑う人の愚かしきを
人の愚かしさを笑い笑って 忘れて無にならんとす
無欲にして愚かなるを忘れれば 人 笑いに笑い
愚かなる人 笑い笑えば 酒 吾を呑む

さて、神智体詩にしろ十字回文詩にしろ、なんだ、言葉の遊びではないかというそしりがあるだろう。わが国の文学善男信女には、他作の長所よりも短所を見つけることである種加虐的に自己を守る防衛本能があるようだ。そして、そのこと自体は、善いとも悪いともいえない。
しかし、十字回文詩は、単なる言葉あそびに留まるものではない。拙作十字は、「忘欲無。吾呑酒笑,笑人愚(忘れて無からんと欲す。われは酒を呑んで笑う、笑う人の愚かなるを)」とだけ読むことができる。韻字は「無と愚(下平声七虞)」。平仄は「仄仄平。平平仄仄,仄平平」。詩としての内容の良し悪しは他評にゆずるが、拙作は、中国古典詩詞の韻律を踏まえている。つまり、日本人のだれがなんと言おうと、中国の文人にみせれば、これを詩と認める。言葉遊びでも韻律をふまえているのだから、「詩」である。
ただ、拙作の10字は、それを書いたのは葉秀山とわたしぐらいだろうから、定型詩とはいえないだろうという人がいるかも知れない。しかし、そうではない、定型だ。拙作は、あえて回文だと断わらなければ、10字の定型詩として通用する。
葛飾吟社創設者の中山栄造は、この10字の詩を、日本の俳句や川柳の響きを漢語で表現することを可能にする新しい定型として提唱し、「曄歌・坤歌」と名付けた。そして、1997年、中日友好協会・中華詩詞学会の招聘で、日中国交正常化25周年記念行事として北京で開かれた「中山栄造新短詩研討会」において、中国詩詞学会のメンバーから定型詩として成り立つものと認められた。俳句に倣う三四三は「曄歌」、それ以外は「坤歌」である。この曄歌・坤歌は、わが国では今のところ葛飾吟社の同人だけが詠んでいるが、中国では少なからずの人がすでに詠んでいる。
しかし、曄歌・坤歌が世界最短かというと、そうではない。中国の高名な詩人であり書道家である林岫女史から、中国でもっとも古い詩は、二二の4字であったと聞いた。今、それがどういう詩であったかは思い出せないが、押韻はしていなかったように思う。しかし、対句ではあったと思う。二二の対。この詩型を念頭に1首試みるなら、たとえば、

花開,人老。   花開き 人老ゆ。

拙作、詩情があるかどうか以前の問題として、どれだけのオリジナリティがあるのか不安がある。この程度のものは、中国でもっとも古い詩の時代に、今は無名の誰かによって、すでに作られているように思う。
しかし、オリジナリティをどう確保するかという問題があるにせよ、二二の4音節は、世界最短の定型詩としての極限ではないかと思えてくる。詩にはそれを構成する句があり、句は単に語を並べるだけではだめでそれ自体が一文となっていなければならないと考えるなら、その一文を構成するためには、最低2語が必要である。たとえば、花開。そして、その句が文としても通用するとしても、定型詩としての「格律」を備えているかどうかを考えるなら、最低四字は必要となる。「格律」とは、各句の字数と押韻。中国詩ではこれにさらに、平仄を加えることもできる。
そこで、押韻の四字詩。

山高,人小。   山高くして 人は小さい
また、
星馳,人死。   星馳せて 人は死ぬ

しかし、1語をもって詩とするわけにはいかなくても、2語あれば十分という例が、インターネット上の記事にあった。前世紀八十年代初頭、ハーバード大学の卒業生に向けて読まれたメッセージに、「Me, we!」。卒業生から大喝采を受けたと書いてあった。これはすごい。確かに詩だ。押韻している。MをさかさまにすればW、みごとな対句だ。含蓄もある。作者は、モハメッド・アリ。そういえば、アリは「蝶のように舞い、蜂のように螫す」ボクサーだった。見事に対句だ。もし彼が中国に生まれていたら、毛沢東のあとを継ぐ詩人になっていたかも知れない。とすれば、ボクサーが詩を作ったのではなく、詩人がボクシングをしたということか。
さて、中国詩から英詩に移ったところで、どうしても忘れてならないものにHAIKUがある。アリの「Me, we!」これ、もしかするとHAIKUではないのか。とすれば、アリが詠んだHAIKUこそが「世界最短」。
しかし、多くのHAIKUは三行詩として詠まれるようだし、無季非定型が主流のようであっても、わたし自身、HAIKUのことをよく承知してはいないのだから、アリの「Me, we!」をHAIKUだというのは控えるべきだ。しかし、そんなわたしでも、見えていることはある。「世界最短の詩」としての俳句あるいはHAIKUは、日本の有季定型俳句ではない、ということだ。多くのHAIKUは、五七五では詠まれていない。多くは、それよりも短い三四三であったり、五六四であったり、定型の姿を見出そうとすることが無意味であるくらいにさまざまに、しかし一般に、五七五よりも短く詠まれている。
そして、これらの自由律のHAIKUを目のあたりにするとき、そういえば日本にも五七五よりも短い俳句があったことを思い出す。咳をしても一人。尾崎放哉。
このように世界最短の詩についての事実を見てくるとき、「俳句が世界最短」と最初にいった人の真意が気にかかる。インターネットで見る限りのことではあるのだが、多くの記事が日本の有季定型の五七五を「世界最短」としている。しかし、最初にそれをいった人の念頭には、日本の「有季定型」があったわけではないのではないか。今日のHAIKUを生み出すに到った詩精神を指して、「世界最短」といったのではないのか。とすれば、「有季定型」の五七五を左手に掲げつつ、右手では「世界最短」を誇ることは、いかがなものか。「日本が誇る俳句」と書くのはよいが、「日本が誇る世界最短の詩、五七五の俳句」と書くのがよくない。
しかし、それでも、世界の多くの人たちの感動を呼ぶすばらしい句を日本の俳人たちが詠んでいることを、「日本が」誇る、ということが、あるのだろうか。それを書いた本人が、意を得るのはよいが、俳句を詠む者も詠まない者もこぞり集って、それを世界に誇るということで、わたしたちは何を得ているのか。お父さんが偉い、そしたら、その子供まで偉くなるのか。
「俳句が世界最短」と世界に向かっていうことによって、わたしたちは、何を獲得するのだろうか。「俳句が世界最短」ということを知る、それによって、これから書こうとする詩に、どのようなインスピレーションを得、いかなる手法を手にすることができるというだろうか。
わたしにとって気がかりなのは、「俳句が世界最短」と説く有季定型派の俳人たちが、世界の詩の事情に通じていないということもさることながら、世界最短を説くことによって、何がしたいのかが見えてこないことだ。俳句は世界最短だから、これ以上短くする必要はない、といいたいのだろうか。それとも、もっと短くしなければならない、と考えているのだろうか。
世界の詩の事情に通じていないのに、世界最短などと世界を持ち出すことはいささか滑稽だが、それでも五七五は、わが国では最短の定型ではあるのだろう。しかし、未来永劫そうであり続けるかというと、そうではないのではないか。連歌の発句から俳句が生まれたように、俳句もまだまだ短くなる余地はあるはずだ。しかし、世界の詩の事情に耳目を覆い、俳句が「世界最短」への唯一の道だなどと信じ続ける限りは、さらに短い詩への革新は、生まれてはこない。
詩はもとより、それがどれだけ短いかを競うものではない。だから、俳句をさらに短くすることにどれだけの意味があるかもわたしにはわからない。漢語の詩詞を書く者としてわたしは、長いものも書く。短いものも書く。ここでは立ち入らないが、漢語の詩詞には、詞曲と呼ばれる定型が1000を超えてある。押韻をし、平仄をきちんと踏まえて書くということをすれば、その1000を超える定型詩の森に、わたしが考案した詩型を、新たに加えることもできる。わたしがとてもすばらしい作を書いて、多くの人がわたしの作を真似てくれれば、というありえない話が前提だが、詞曲には、そういうことにも理屈のうえでは可能性がある。わたしはこの小論のなかで、「世界最短の定型詩」がどのようにものかについて、展望を開くことができた。アリの「Me we!」を超えることはできないのだ。だから、わたしは、詩の短さだけにこだわらずに、長いものも書こうと思う。
そして、そういう立場から言うのだが、「俳句が世界最短」という言葉が付和雷同のごとくに殷々と説かれ続けていることは、わたしにとっていささか煩わしい。詩は短くなければならないと世界中の人が叫んでいるかのような悪夢が、強迫観念のように、迫ってくるからだ。短くてもよいということと、短くなければならないということは、明らかに違う。しかし、多くの俳人は、俳句は書くが短歌は書かない。そこで、「俳句が世界最短」は、詩は短くなければならない、だから俳句だけが詩だ、というプロパガンダとして、わたしの耳には響く。
そこでわたしは、「俳句が世界最短」という言葉の真意を、わたしなりにきちんと整理しておかなければならない。なぜなら、わたしは、「俳句が世界最短」ということに詩を書くのに役立つ積極的な意味を見付けられないのだが、「俳句が世界最短ということには意味がない」ということを、きちんとわたしの腹に落としておく必要があるからだ。そこで再考するなら、「俳句が世界最短」の真の意味は、その字義どおりに字数または音節の短さを世界に誇ることではなく、「五七五は短い。その短いなかにどれだけ多くのことを詠み込めるかが俳句」というあたりにあるのだろうと思う。そして、漢語で同じことを詠むなら、曄歌三四三の10字10音節で足りるが、日本語ではなかなかそうはいかないということを考えれば、俳句の道には、血の河が流れているかとも思える。俳句人口1000万人の血の滲む努力。その滔滔たる流れの源流に芭蕉が立っているのだろう。そして、その血の河の河口付近での広々とした思いが、「俳句は世界最短」という詩的誇張へと、言葉を躍らせたのではないか。
そういえば李白も、自らの老いを鏡のなかに見て、「白髪三千丈」と詠んだ。

(「吟遊」第28号、吟遊社、2005年10月20日刊)