喜屋武元貴 のすべての投稿

正岡子規の俳句友だち

――河東碧梧桐と高浜虚子を中心に
夏石 番矢

1 正岡子規にとっての松山

四国の松山は、私にとってなつかしい場所である。一九九一年に、テレビ出演二回目にして、松山城のてっぺんから、小説家の胡桃沢耕史、漫画家の内田春菊、評論家の呉智英、俳人の松本恭子、司会は福留功男といった、奇想天外な組み合わせで、実況生放送の句会を行なった。選者役は、まだ三十代だった私が勤め、本丸へ登ってきた観光客に好奇の目で眺められながら、紅白の幕のなかで、肩ががちがちに凝るほど緊張しながら、なんとか数時間の番組を終えた。途中で、マイクの音声が途切れたり、緊張のあまり、私がなめらかに発言できなかったりしたことはあったが……
しかし当時、NHK松山の、とびきり若い六山ディレクターがこのように大胆な企画を立て、それが実現したことは、現在は高齢者ばかりがテレビ出演するNHKの俳句番組では考えられない。それだけ、俳句も、日本も、老化してしまったということだろうか。
高齢化社会が来ることは、つまりはお年寄りが長生きできるわけだから、大変よろこばしいのは無論だし、ヨーロッパの先進国は、ずっと前からそうなっている。私が二年暮らしたフランスも、以前から高齢化を迎えていた。けれども、お年寄りは、自立して暮らしており、たとえば、買いだめした、食料などの日用品を入れた、重い買いものかごも、男女を問わずひとりで、かごに付いた小さい車の助けを借りて歩道を転がし、店から自宅アパートまで、持ち帰っていた。それがごく自然な光景だった。
日本のように、高齢化が進んだことにとまどってばかりいて、社会全体が、まっとうな対策が立てられず、いたずらに硬直化し、そのうえ柔軟な発想を認めなくなるのは、決して先進国として望ましくないのは、言うまでもないことである。
話をもとに戻すと、実を言えば、この番組出演のときが、松山への最初の旅だった。この五月の松山訪問は、うれしいことに晴天に恵まれた。お城の堀端の栴檀の薄紫の花が、小さいながらも、とても印象的だった。また、木々の青葉若葉、日の光ののびやかさ、風の穏やかさも、快い印象として残っている。

春や昔十五万石の城下哉

『寒山落木』明治二十八年(一八九五年)の「春時候雑」に収められているこの、正岡子規による、のどかな俳句を、私は俳句初学の十代のころより、ひそかな愛唱句としてきた。同じ瀬戸内の姫路の中学と高校に通っていた私は、この「城下」を、姫路に置き換えて、どこかしっくりしない気持ちを抱えながら、納得しようとしていた。いや、納得したと思い込もうとしていた。
松山を訪れ、その城下町を初めて訪れてみて、やがて南国松山のくつろぎこそが、子規がこの俳句で訴えたかったのだとわかった。姫路では、町が大き過ぎ、お城が大作りであり、気候もまだうすら寒いのである。

子規は、同年四月二十四日に、

春や昔古白といへる男あり

を作り、『寒山落木』の、先ほどの句の少し前に、入れている。このころ子規は、「昔」をよほど振り返っていたにちがいない。
調べてみると、のどかな春の城下町を詠んだ明治二十八年は、いまから百六年前であり、この一八九五年、子規は、日清戦争に従軍する途中、覚悟を決めて三月中旬に一時帰郷し、墓参している。
「十五万石の城下」は、もちろんお手軽な観光俳句ではなく、自分の生まれ育った松山を、短い俳句によってまとめあげ、戦死すら予想していただけに、ひいては松山への別れの俳句であってもよいと考えていたのではないだろうか。
「はるやむかし」の六音の出だしが、通常の五音の出だしより、いっそうのどかさをつのらせて効果的だ。こののどかさこそは、死をも折り込みずみの正岡子規にとっての、松山そのものだったように思える。
中規模の、穏やかで、権威主義的ではない、文化的な町、松山。

2 「常春(とこはる)」の松山人、子規と碧梧桐

松山原人という、新種の原人が、発掘品の捏造でもしないかぎり、存在するわけはないだろう。かりに日本に、明石原人がいたとしても、現在の日本人の祖先ではないようだ。北京原人がたぶん、現在の中国人の祖先ではないように。また、ネアンデルタール人が、現在のヨーロッパ人の祖先ではないように。日本人は、北から南から、あちらこちらからやってきた人間たちの混血から生まれた民族にすぎない。
それでも、松山に生まれ育った人々の性格には、やはり共通の特徴があるようだ。
ここに、新聞記事の切り抜きがある。読売新聞の今年の三月八日夕刊の「旅」というコラム。カラー写真で、道後温泉と松山城を紹介し、市原尚士記者の署名入りの文章に、こんなくだりがある。

天災が少なく、気候も温暖な松山に住む人は、どうも性格も温和な人が多いようだ。
(中略)
未来のみを見つめた楽天家。これほど、松山人の明るさとゆとりをうまく言い当てた言葉があるだろうか。

これは、現在も私につきあっていただいている松山の諸俳人の性格にぴったりあてはまる。やはり、うれしいことに松山は松山なのである。
正岡子規が、河東碧梧桐にあてて送った俳句に、

寒からう痒からう人に逢ひたからう

という、のちの自由律俳句の先触れのような一句がある。この俳句は、明治三十年(一八九七年)に、碧梧桐が、天然痘にかかって入院するのに、子規がお見舞いとして作ったものだ。
二年前の日清戦争従軍の帰路さらに喀血し、病床から離れられなくなった重病人の正岡子規から、天然痘の新米病人の河東碧梧桐への、実にまこごろのこもった、しかも明るい挨拶俳句である。
ここにまず、典型的に明るく、楽天的な松山人、正岡子規のありようを、見て取ってよいだろう。なんと子規は、この五年後に他界するのである。
ところで、河東碧梧桐と高浜虚子の二人の後輩のうち、碧梧桐の俳句の才能を、より高く評価していたことは、よく知られている。
河東碧梧桐の全集が、正規の出版社から刊行されいてない現在、私は全句集を持っていても、碧梧桐の全貌を知らないとしか言えない。財政豊かな愛媛県が、賞金額だけ大きい俳句の賞に、選考結果も明確にせず、精力を浪費するよりも、河東碧梧桐の全集を、一日も早く発刊されることを切望する。
それはさておき、私は碧梧桐の俳句のうち、

我が踏むこの石このかけらローマの春の人々よ

が、とくに好きだ。
大正十年(一九二一年)に、欧米旅行のさいに、古代ローマ帝国の首都あとで詠まれた一句である。
おもしろいことに、この長い俳句は、春の松山を、従軍直前に必死で詠んだ正岡子規の俳句を思わせてならない。
子規の句の「城下」と、碧梧桐の句の「ローマ」の「石」。そして、偶然にも両句とも、季節は「春」である。
さらに、子規の、最初のフレーズには六音の破調。自分の傘下の俳人たちから、自由律俳句出現後の碧梧桐の句は、四・四・五・七・五音。
子規も、碧梧桐も、のちの高浜虚子によって固定される「有季定型」の窮屈さを、のびのびと松山人らしく超えて、自分の思いを十分詠み切っている。その見事さよ。
碧梧桐の俳句の、「春の人々」とは、碧梧桐滞在時のーマで見かけられた人々、そして古代ローマ全盛期の人々を表わし、そしてほんとうのところは、南国松山の人々のことを、思い出して表現しているのではないだろうか。
「常夏」にひっかけて、松山の人々を、ついつい「常春(とこはる)の人々」と呼んでみたい気になる。

3 虚子の過剰防衛、碧梧桐の淡白

日本が、バブル経済の、奢りの夢に、つかのま酔いしれていた一九八〇年代、「高浜虚子へ帰れ」という号令が、起床ラッパのように、日本の俳句界に鳴り響いた。
私は、子規や碧梧桐の俳句と同じように、虚子の句にも十代のころより親しみ、愛唱句が少なくないが、右へならへの号令をなによりも、当時憎んだ。
バブル期の日本俳壇で利用された高浜虚子もまた、松山市内を幼いころ、離れたとしても、松山人であることは疑いない。おだやかな松山の大空が下敷きになった俳句を、松山を離れ首都圏で暮らした虚子は、つねに追い求めた。

大空に又わき出でし小鳥かな 一九〇六年
大空に羽子の白妙とどまれり 一九三五年
浅き春空のみどりもやゝ薄く 一九四六年
ほどけゆく一塊の雲秋の空 一九五七年

虚子は、決して過激な人ではない。また、勇敢な人ではない。だから、温和な人間が、はからずも俳壇のリーダーになったとき、新しい流動的な状況や、個性的な人間に対しては、おびえて、過剰防衛してしまう。
虚子は、自己防衛本能が人一倍発達しているだけに、明治二十八年(一八九五年)、正岡子規から、俳句の後継者に要請されたとき、拒絶してしまう。
後年、杉田久女や日野草城を、「ほととぎす」同人から除名したのもまた、自己防衛本能からであろう。
もともと温和で、煮え切らなず、自己防衛的な性格も、松山人の長所でもあり、短所でもある。虚子にあらわれた、この特徴を正岡子規は、熟知しており、若いころより、真剣に忠告していた。
これに対して、碧梧桐は、冒険的で、才気にあふれていた。しかし、温和で粘り強さに欠ける。したがって、碧梧桐は、あっさりと昭和八年(一九三三年)、俳壇を引退したのである。
この碧梧桐の性格も、松山人的なキャラクターだろう。このことも、正岡子規は明確に知っていたようだ。

4 「常春(とこはる)」の豊かな人間関係

正岡子規の残した俳句のうち、私は、

月一輪星無数空緑なり

という、明治三十年(一八九七年)作の一句を、こよなく愛する。これは、単なる写実の俳句でもなく、また単なる空想の俳句でもなく、すなわち『俳諧大要』で子規が俳句の究極として想定した「非空非実」の観点から生み出された名句だ。おそらく、痛み止めのモルヒネを打たれて、なかば夢うつつの正岡子規が、生命の本質を、ふと短いことばでつかんだ、そういう俳句である。
この俳句の英訳は、次のとおりである。この英訳は、私とアメリカ人翻訳家エリック・セランドの共訳。

Around the lone moon
countless stars
the sky now green

この俳句を、日本語と英語で、昨年八月末に英国のロンドンで開催された、世界俳句フェスティバル二〇〇〇で紹介したところ、日本(これも正岡子規の遺徳のおかげだろう。日本からは、相原左義長ら、松山からの参加者が最も多かった)と英国はもとより、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スロベニア、ハンガリーなどから、参加した俳人や研究者たちからよい反応が返ってきた。
私は、宇宙にも、月や星という生命があふれ、天空全体に、地上の緑までが、なだれこんでいるのは、写実を超えた、宇宙の本質把握が、子規によってなされているためだと、英語で説いた。
真夏というよりは、永遠の春、「常春(とこはる)」の緑を、子規はこの句でしっかりつかんだ。
瀕死の病床にありながら、生命への積極的な意志を持ち続けた正岡子規。そこに私は、松山人の楽天性が基盤になってできた、美しく、柔軟で強固な、新しい人格の出現を見る。
この奇跡的な病人に、碧梧桐、子規、内藤鳴雪などの近代俳人のみならず、伊藤左千夫、岡麓などの、近代短歌の育成者たちが、集まってきても、何の不思議も感じない。あるいは、英国留学中の、のちの小説家、夏目漱石が、深い友情を子規に対して、海を超えて抱き続けたことも、当然のこととして受けとめられる。
近代日本において、文学以外のジャンルで頭角を表わす人々、たとえば、ジャーナリストの草分けであり、子規のパトロンでもあった陸羯南、洋画の中村不折、数学の寺田寅彦などが、自然に寄り来たるのも、自然にうなずける。
この永遠の青春、「常春」を生きた子規は、絶えることのない、のびやかな「常春」の豊かな人間関係を、百年のときをへだてても、私たちに、にこやかに示してくれているのである。

季刊「子規博だより」Vol20-4(松山市立子規記念博物館、2001年)所収。

ダウンロード版-Word

ドイツ俳人へ

(2001年6月3日、ドイツ、フランクフルト)

夏石 番矢

本日は、第七回ドイツ俳句協会会議にお招きくださいまして、まことにありがとうございます。
六月は、日本では、じめじめした梅雨という雨季ですが、ヨーロッパでは、さまざまな花が咲き乱れ、晴天に恵まれ、昼の時間の長い、一年中で最もすばらしい季節であります。こういう時候に、この会議を設定されましたことに、ドイツの皆さんの俳句への深い愛情を感じ取らせていただきました。
また、今回でこの催しが、七回を数えるにいたりましたことに対して、ビュアシャーパー会長をはじめとするドイツ俳句協会の方々、またシュヴァルムさんを旗頭とするフランクフルト俳句サークルの方々に、心からの敬意を表明したいと存じます。
さて、俳句はその生まれ故郷日本のみならず、ご当地ドイツはもとより、世界各国に広がりつつあります。
近年の主な国際的な俳句会議を列挙しますと、1999年七月、ノストラダムスの予言ははずれ、地球は破滅せず、日本の首都で、国際現代俳句シンポジウムが開かれ、昨年四月にはアメリカで、グローバル俳句フェスティヴァルが、また八月にはイギリスで、世界俳句フェスティヴァル2000が、九月にはスロヴェニアで、世界俳句協会創立会議が、いずれも成功裏に開催されました。
これらの会議を通して、俳句は、それぞれの文化に根ざし、それぞれの言語の特質を生かしながら、より新しい可能性をはらんだ短詩として、考えられるようになってきています。
この二月にフランスのブルターニュで行われました、雑誌「hopala!」主催のフランス語、ブルトン語、ガロ語(gallo)による俳句コンテストには、文学的に質の高い俳句が寄せられ、フランス語子供部門の第一位は、1988年生まれの、エリーズ・タンギー(Elise Tanguy)さんという名前の少女の、

Dix mille ans plus tard
Les mégalithes attendent encore
Le soleil et la lune

一万年後
巨石はなお待つ
太陽と月

に与えられました。審査員を務めました私も、このコンテストの総責任者であるアラン・ケルヴェルヌ(Alain Kervern)氏も、予想を超える成功に驚き、かつ満足しています。
ちなみに、ケルヴェルヌ氏も、フランクフルトの現代俳人マルティン・ベルナー氏も、国際現代俳句シンポジウムのパネリストでした。
ところで、巨石というテーマが、この俳句コンテストの課題の一つでしたが、ここにコンテストの成功の秘密が潜んでいます。
ケルト人以前の先住民による巨石遺跡が、ブルターニュのあちこちに残っています。最も有名なのが、カルナック(Carnac)にいくつかある巨石列(alignement)です。
この巨石列は、花崗岩でできており、太陽や月の昇る方角と沈む方角に合わせて、メンヒルが並べられています。
現代人は忘れがちですが、巨石は私たちよりずっと長い一生を生きているのです。
ケルト時代のヨーロッパでは、大きな木や大きな岩、水の湧く泉、太陽や月、大地などが、崇拝されていました。アニミズム的信仰です。エリーズ・タンギーさんの俳句は、古代ケルト人にも通じる、巨石への恐れと尊敬の思いを、短いことばで印象的に描き、私たちが宇宙内部に短い生涯を送る生き物だということを、感動を伴って教えてくれます。
19世紀ドイツに花開いたロマン主義は、巨石や大樹を描いたカスパル・ダーフィット・フリードリッヒ(Caspar David Friedrich)の絵画が端的に示すように、ゲルマン的伝統とともに、ケルト的伝統を再発見したとも言えましょう。
他方、私たち日本人には、タンギーさんの巨石への畏敬の念は、とりわけよく理解できます。と言いますのも、現代日本においても、大きな岩が神として崇拝されたり、古木が神の樹木として尊敬されたりしているのです。日本の神社をご覧になった方には、日本でのアニミズム的伝統がおわかりいただけるでしょう。
ブルターニュ地方では珍しくない巨石から、ブルターニュ地方にだけ理解される俳句が作られたのではなく、私たち人間に共通する宇宙的な思いが宿った世界的、宇宙的俳句が生まれたことに注目したいのです
最高の俳句には、身近なものを大宇宙へと広げる不思議な力がそなわっていると、タンギーさんの俳句は静かに語っています。
アニミズムは、未開人の劣ったメンタリティではなく、多様で矛盾に満ちたこの世界を包容力豊かに受け入れることのできる、二十一世紀の多元的文化に必要とされる人類文化の共通基盤だと、私は考えています。
とくに俳句のような短い詩が、いきいきとした世界を作り出すには、大きなものから小さなものにまで、深い共感をもって描くことが大切となります。それはまさしく、アニミズム的共感でしょう。
昨年私は、世界俳句フェスティヴァル2000開催を記念して、小さい国際俳句アンソロジーを編集し、出版してみました。18か国85俳人の俳句を、そこに集めることができました。
そのアンソロジー『多言語版 吟遊俳句2000』(Multilingual HAIKU TROUBADOURS 2000)に寄稿してくださった、フランクフルトの俳人の俳句のうち、マルティン・ベルナー氏の、

kann einen rühren
das magere einsame
Schneeflöckchen

私に触れられるだろうか
やせたひとりぼっちの
小さい雪の華

に、微小の雪の結晶への、深い共感と愛を見つけ、読者としての喜びを感じました。

また、エリカ・シュヴァルムさんの、

Sonnenfinsternis.
Ein Wasserfloh spaziert
über den Algenteich.

日食や
ミジンコ歩く
藻の池を

に、不思議な宇宙を発見できました。この「水蚤」(Wasserfloh)は、肉眼ではよく私はまだ見えませんが、なにかとても愛らしい小生物として、心に残るのです。
生け花を通じて、日本的アニミズムをシュヴァルムさんは、学ばれたのかも知れません。ときには、竹や蘭を残酷に切り刻みながら、シュヴァルムさんは、竹や蘭に第二の生命を与えているのでしょう。
季語を入れて、必ず5・7・5音でなければ、俳句ではないという、狭くて古い俳句の概念は、日本でもくずれつつあります。
全世界に通用する新しい俳句の定義はあるのか、という大問題が、21世紀はじめの私たちにまさに提出されていますが、それは、ドイツ俳人の皆さんの俳句観を、よくうかがってから、議論したいと思います。
俳句を作り、味わう、楽しさを損なわない、建設的議論が、この会議において十分行われることを、大いに期待しております。
ご清聴ありがとうございました。

夏石番矢『世界俳句入門』(沖積舎、2003年)所収。

ダウンロード版-Word

俳句をとおして本当に東洋と西洋は出会ったか?

夏石 番矢

西洋人は本当に俳句に遭遇したのだろうか? この重要な問題を前にして、私に鳴り響く答えは、同時に「はい」と「いいえ」である。この曖昧さは、ほとんどの西洋人が翻訳を介在させてしか俳句に遭遇していないという事実に由来する。私たちの世界では、翻訳が必要不可欠だとしても、いわゆる「俳句詩人」と自称する人は、どうして日本語を学ぼうとしないでいられるのだろうか? 数年前のヨーロッパで、ある俳句の国際的行事の最中に、私はひとりの老人に尋ねてみた。「どうして俳句をもっと知るために、日本語を勉強しないのですか?」彼はこう答えた。「年を取り過ぎているからできないのさ」私は会話をそこで終わらせた。
この東洋と西洋の質疑応答を、皆さんはどう思われるだろうか?
まず最初に、不幸なことに、海外の俳句についての情報はつねに正確ではないと言わなければならない。ときには情報が奇妙なので、私が笑ってしまうこともある。
英語で俳句を書く人たちのバイブルは、R・H・ブライス(一八九八~一九六四)著の『俳句 第1巻~第4巻』(北星堂、日本、一九四九年~一九五二年)である。私が学生のころ、このバイブルを買ったのだが、すぐに東京の古本屋に売り飛ばしてしまった。なぜなら、ブライスが、俳句の詩学を無視して、日本精神の典型と彼が信じるものを、俳句においてあまりに誇張しているからだ。
二十年後、英語で書かれる俳句に親しめば親しむほど、ブライスの著作の直接的間接的影響を見つけるようになった。このインターネット時代に、書店のサイトを通じて、ブライスの俳句についての本をまた買うことになった。
ブライスによる俳句のバイブルとの再会をまずは喜んだあと、そのなかの一節を読んで、私は笑いはじめてしまった。ブライスは、『俳句 第1巻』(一九四九年)で、芭蕉の俳句を次のように引用している。

無私であることの条件とは、ものごとが、利益になるか不利益なるかという関連なしに、見えることである。たとえ、深遠で精神的な種類の関連でさえいらない。
神を愛する人は、神が見返りとして自分を、ひいきして特別な愛着を示して、愛してくれることを望みはしない。
霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき                  芭蕉

Misty rain;
Today is a happy day,
Although Mt. Fuji is unseen. Bashô

日本語が理解できない人たちには、この一節はかなり納得できるだろう。日本の学者も、このブライスの解釈をほめている。
学者としても詩人としても、私は芭蕉の俳句を、この句に芭蕉が選んだ日本語の繊細な一語一語をもとに、分析してみたい。最初の日本語「霧時雨」は、ブライスの翻訳にあるような「霧雨」ではなく、「濃霧」を意味している。だから、この句の最初のことばからして、私たちは突然、視界を失う。芭蕉のこの意外なわざは、私たち読者を驚かせる。二番目のことば「富士」は、日本で一番高く、一番有名な山。このことばは、私たちをくつろがせ、元気付けてくれる。それから、次の「見ぬ」は、見えないということで、調子がまた変化する。このことばは、富士山の美しくはれやかな景色を打ち消してしまう。「見ぬ」に続くことば、「日」は、一日を指している。最後のことば、「おもしろき」は、形容詞であり、今度はそれまでの否定的な調子とは正反対である。全体として、この俳句において芭蕉は、富士山を見られない一日も、自分にとっては興味深い、と言っている。
この俳句は、芭蕉の句の最高作ではないが、それでも、いくつかの要素(瞬間)と変化を含んでいる。これらを、ブライスは見逃したか、強調しなかった。
もう一方で、この短詩は、「無私」を伝えてはいない。「無私」は、ブライスが考えたように、日本の古い精神性、禅につながる。
世界で、自己のない詩人はいるだろうか? たとえ、詩人が「無私」に到達するとしても、たくさんの自己、別の言いかたをすれば、エゴの諸段階を通り抜けてはじめて、実現する。
芭蕉は一六八四年、彼の中年期に、さきほど引用した句を作った。「無私」とはほど遠い時期だった。考えても見よ、何かがおもしろく感じる人間は、「無私」ではありえない。さらには、芭蕉は、生涯のそのとき、俳句創作の新しい方法を発見するため苦闘していた。
R・H・ブライスが、日本の古い精神性を見つけたのは、私たちにとっての幸福である。たしかに、日本文化のある部分は、禅に基づいている。しかしながら、禅による説明という先入観の視点から俳句を受け取ることは、キリスト教の視点から、西洋の詩を受け取ることと同じではないだろうか? こういうふうに考えるならば、西洋人は、ブライスの先入観に賛同できるだろうか?
『俳句 第1巻』に引かれた俳句に話を戻せば、私たちの日本古典俳人は、富士山が見えない日がおもしろい、とい言っているのではなく、富士山が見えないけれども、富士山を心のなかで想像できるから、その日はおもしろい、と言っているのである。R・H・ブライスは、芭蕉の俳句を誤解し、誤訳した。
英語圏の人々のみならず、西洋人に俳句を広めたブライスの功績をけなすつもりはない。だが、ブライスの日本の俳句の誤解と誤訳は、単純化しすぎた視点に根があり、ときどき日本の詩歌の的をはずことがある。
ブライスによる『俳句 第1巻』の序文に、「禅と詩歌は実質的に同義語だと私は理解している」とあり、これが西洋世界への俳句受容を誤った方向へ導き、今日にいたるまで、ゆすぶることのできない、拭い去れない悪影響を残した。ブライスのこのような単純すぎる俳句理解は、彼の師、ひとりの日本人仏教者、鈴木大拙(一八七〇~一九六六)から来ている。20世紀の日本の禅の大家は、俳句を含む日本文化を、禅仏教の観点から、大胆に西洋世界へ紹介した。俳句創作における禅の役割の誇張を、ブライスは、自分の師、鈴木大拙から学んだ。この禅の大家は、「禅と俳句」というエッセイで、次のような誇張を書いている。

仏教を離れて、日本文化を語ることはできない。日本文化のどの発展の局面においても、さまざまなあらわれかたで、仏教的感情が存在するのがわかる。
(Zen and Japanese Culture, MJF Books, USA)

私はこの主張に部分的に賛成しながら、日本文化に、アニミズムという背骨があることを強調し、ふたたび書き入れておきたい。現代においてさえ、わが国にアニミズムの伝統が存続している。東京の道路のまんなかにある、高くて古い木に、人々は畏敬の念を持つ。だから、こういう木は、悠々と立っていられる。私の住む富士見市を歩き回っていると、高い木々でおおわれた神道の神社を、簡単に見つけられる。
日本のアニミズム的伝統の、より広くて影響力の強い重要性を知らずに、R・H・ブライスは、鈴木大拙の教義を素朴に信じた。ブライスは、鈴木大拙のいいお弟子さんだった。幸か不幸か、ブライスは、後続世代の詩人にかなりの影響力を及ぼした。ブライスのおかげで、俳句は、短詩ではなく、神秘的で単純化されたことば遊びとなってしまった。一九五五年に、ブライスの『俳句 第1巻~第4巻』を読んだあと、米国のビート詩人、アレン・ギンズバーグ(一九二六~一九九七)は、「四つの俳句」を書いた。そのうちのひとつを次に引こう。

Lying on my side
in the void:
the breath in my nose.

空虚のさなか
脇腹を下にして寝て
息が鼻のなかに

(Collected Poems 1947-1980, Harper & Row, USA, 1984)

この短詩を書きながら、ギンズバーグは、日常生活のなかの一瞬間をとらえた。しかし、この瞬間が本当に大切なのかどうかという疑問が残る。
この短詩によって、ギンズバーグは、自分の生きているからだの通常の働きを再認識した。だが、この俳句は心に響くだろうか? ささいな発見以外の何かを、私たちに思い浮かべさせられるだろうか? ギンズバーグによって書かれたこの三行は、中軸のない沈黙に支配されている。
日常生活に、ささいな美やささいな真実を見つけるのが、20世紀の詩の特徴かもしれないが、ずっとささいなままの、ささいなものは、本当の詩の主題ではない。

ところで、R・H・ブライスや鈴木大拙との関係を私は知らないのだが、著名なフランスの批評家ロラン・バルト(一九一五~一九八〇)は、『記号の帝国』(L’Empire des signes, Editions d’Art Albert Skila, Swiss, 1970)のなかで、俳句に奇妙なかたちで触れている。

俳句(線分)は、直接的な動きで「あれ!」とだけ言いながら、何にせよ指で指し示す子供のしぐさを表
現する……俳句は何も特別なことを言わない、これは禅の精神に合致している……

この本には、日本文化についての鋭い指摘も見られるのだが、バルトの俳句理解は、極端なまでに異様だ。バルトは、鈴木大拙やR・H・ブライスの間接的な弟子だろう。
バルトは、正岡子規(一八六七~一九〇二)のこの一句を、「絶対的なアクセント」と見なしていた。日本語の原句、バルトの本にある長い仏訳、そしてこの講演のために作った短い英訳を引いてみよう。

牛つんで渡る小舟や夕しぐれ

Avec un taureau à bord,
Un petit bateau traverse la rivière,
A travers la pluie du soir.

A cow on board
a little boat traversing―
autumn evening rain

どうしてロラン・バルトは、このような平凡な俳句に興味を持ったのだろうか?
バルトにとって、日本の俳句は、束縛された古い西洋文化から自由な子供でなければならなかった。彼にとって、俳句は、意味でいっぱいの長い西洋の詩と正反対でなければならなかった。バルトは、俳句が短すぎて、意味を内部に含めないと考えた。バルトの俳句理解は、鈴木大拙やR・H・ブライスと同様に、過剰に単純化されたものだった。違いは、フランスの有名な批評家、ロラン・バルトが、俳句に意味を与えることを禁じて、俳句を極度に単純化し、不毛にして、俳句を、西洋文化からの逃避の悲鳴として、私たちに投げ出したことだ。言うまでもなく、俳句は、意味から逃れられはしない。日本人を含む人類は、意味のない表現に耐えられない。表面的にナンセンスに見える表現も、人間のあらゆる発語において、なにがしかの意味を伴っている。

いま私は海外の俳句創作を否定しているのではない。それどころか反対に、多くの言語での俳句の可能性を確信している。そのような豊かな可能性を実現するには、西洋の俳句理解に、深まりをもたらさなければならない。俳句は仏教の詩ではない。俳句は意味から逃れられない。何よりもまず、俳句は詩のエッセンスでなければならない。俳句の小宇宙のなかに、私たちは大宇宙を見ることができる。たった一句の俳句も、いくつかの要素(瞬間)といくつかの変化からできているのは、先ほど引用した芭蕉の俳句で目撃したとおりである。

私が若かったころ、西洋の詩を学び、俳句を書いていた。私は新しい俳句創作方法を発見しようと試みた。

階段を突き落とされて虹となる

Shoved off the stairs―
falling I become
a rainbow
(A Future Waterfall, Red Moon Press, USA, 1999)

もちろん、この俳句を、仏教的ベースから書いたわけではない。たぶん、あるつらい経験を昇華させようと、このような俳句を書いた。この句の初案は、次のとおりである。

階段を突き落とされて貝となる

Shoved off the stairs―
falling I become
a shell

あなたにとって、「虹」と「貝」のどちらがいいだろうか?
日本語では、「貝となる」は、「沈黙を守る」という意味。かなり陳腐な表現だった。「虹」が「貝」にとってかわるやいなや、この俳句全体が、火花を放ち始める。この俳句は、予想外の要素(瞬間)や変化を内部に持つようになる。この昇華は、私の信じる俳句詩学の核である。

すぐれた詩人たち、たとえば、スウェーデンのトマス・トランストロメール(一九三一~ )、ポルトガルのカジミーロ・ド・ブリトー(一九三六~ )が、それぞれの言語で、俳句を書いている。いずれも、その国を代表する詩人で、国内のみならず、国際的評価が高いが、日本ではほとんど知られていない。
まずは、トマス・トランストロメールの思索的な俳句を見ておこう。

The white sun’s a long-
distance runner against
the blue mountains of death.

白日の長
距離走者が
死の山脈を背景にして

The presence of God.
In the tunnel of birdsong
a locked seal opens.

神の存在
鳥の囀りのトンネルに
封印が開かれる
(New Collected Poems, Bloodaxe Books, UK, 1997)

半身不随のため、もう口をきけなくなったこの詩人と、二〇〇三年に、私はマケドニアで出会った。ストゥルーガ詩歌の夕べにおいてであった。この詩人が、多くの詩人から敬愛されているのを肌で感じた。
もう一人の詩人カジミーロ・ド・ブリトーは、私の親友だ。彼の俳句に、南欧の底抜けの明るさと虚無主義の共存が見られる。

De canto em canto
vou caindo
no charco do silencio.

De chant en chant
je tombe
dans l’étang du silence.

歌うにつれ
沈黙の池へ
落ちてゆく
(intensités intensidades, l’arbre à paroles, France, 1999)

これはポルトガル語とフランス語対訳詩集の一句。おそらく芭蕉の「古池や」にヒントを得て作られたものだろう。

Poeta audacioso―
ousa decifrar as sombras
da luz original

Poète audacieux ―
il ose déchiffrer les ombres
de la lumière originelle

An audacious poet―
he dares to decipher the shadows
of pristine light

大胆な詩人
原初の光の
影を読み解く
(HAIKU PARA KISAKO, in Ginyu No. 26, Japan, 2005)

こちらは、私が発行する国際俳句雑誌「吟遊」に、ポルトガル語、英語、フランス語、日本語の四言語で発表された俳句。詩人の役割に対する自覚を力強く詠んでいる。

これらの高度な作品は、まだ少数であり、俳句創作や俳句が、それぞれの国々で、広く深くは認知されていないかもしれない。
いま俳句は、おもに異国趣味がもとになって、受け入れられているのかもしれない。表面的な異国趣味は、単なる一時的なひまつぶしにすぎない。けれども、深められた異国趣味は、何か新しくて、貴重なものをもたらしてくれるにちがいない。俳句の詩学が、多くの国でよく知られるようになったならば、俳句はよりいっそう受け入れられ、詩としての実体を持った短詩、国内と海外の賞賛にふさわしい短詩を生み出すだろう。これが、まさしく「世界俳句」という私の理想である。

本稿は、第三回世界俳句協会大会(二〇〇五年七月十五日~十八日、ブルガリア開催)のための講演原稿(原文は英語)の和訳に加筆したものである。

夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句2006』(七月堂、2005年)所収。

ダウンロード版-Word

世界俳句のために

夏石 番矢

「世界俳句」ということばは、平和であると同時に痛ましい。「世界俳句」は、「世界平和」を思い出させるから、平和でりあり、もう一方で、「世界大戦」を思い出させるから、痛ましい。「世界」と「俳句」のあいだには、普通ではない関係があると言わねばならない。
おそらく、西洋世界は19世紀の終わりに、W・G・アストン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、B・H・チェンバレンらの仕事のおかげで、俳句と最初に出会った。ちょうど20世紀はじめ、1902年に、イギリスの日本学者、B・H・チェンバレン(1850~1935)は、「芭蕉と日本の詩的エピグラム」(「日本アジア協会紀要」第30巻、1902年、東京)という題の長い論文を発表した。同じ年、正岡子規(1867~1902)は、日本の俳句の近代化を終えることなく他界した。チェンバレンは、その論文で、日本の古典的俳句について、二つの本質的なことがらを指摘していた。
最初の指摘は、俳句には、「論理的知性に対する」「いかなる主張もないが、想像力または記憶に向けての、三筆でざっと描かれた自然の情景」がある、というものだった。この指摘は、今日でも説得力がある。もちろん、俳句は、詩歌の一種であり、言語芸術の一つだが、その最も顕著な特徴は、イメージを作り出す力にあるだろう。日本でも海外でも、成功した俳句作品は、印象的なイメージを生み出す、としばしば言われる。だから、現代でも、少なくない人々が同時に、俳句を作り俳画を描いているのである。私たちの世界俳句協会は、そのホームページで、月ごとの俳画コンテストを催している。たくさんの国から応募された俳画は、私たちに想像的な多様さを見せてくれている。応募された俳画のそれぞれの美しさを鑑賞しながら、一つの疑問が私に生じる。ときどき私は、俳句の目的は、単にイメージを作り出すだけだろうか、と考え込む。どういうイメージが、俳句にとっても最も望ましいのだろうか? 本当に、俳句は、少ないことばでできた小さい絵なのだろうか? 正岡子規は、チェンバレンと直接の関係はないが、子規の俳句近代化の一つの目的もまた、俳句によって印象鮮明なイメージを作り出すことだった。
この重要な疑問に答えるまえに、次のようなチェンバレンによる俳句についての第二の指摘に触れておいたほうがいいだろう。俳句は、「かけらのそれぞれが、別の角度から風景の小さい一角を映し込んでいる、砕かれた水晶であり、あるいは自然界における事実についての短いメモであり、あるいは感情や幻想の暗示だろう」。そう言いながら、チェンバレンは、俳句をほめあげているのではなく、文学や詩歌としての俳句を否定しているのである。チェンバレンによる文学としての俳句の否定に、私は俳句と西洋世界の危機的な出会いを見出だす。
いま私は、俳句が本当に日本以外の東洋世界に出会ったとは断定できない。中国で、1980年代から、「漢俳」と呼ばれる俳句創作を、中国人が始めたことを知っていたとしても。
また、チェンバレンの俳句否定に話を戻そう。もしも俳句が、ことばによる小さな絵にすぎないのなら、俳句は文学でも、詩歌でもないだろう。いわゆる西洋的文化伝統や価値観にしがみ付いていたチェンバレンは、実際に20世紀を通じて花開いた短詩の可能性を予測できなかった。
俳句の影響を受けて書かれた短詩で、最も有名なのは、たった二行の「地下鉄の駅のなかで」である。

人ごみのなかのそれらの顔の突然の出現
濡れた太い枝に張り付くはなびら
(『大祓(おおはらえ)』、1917年、米国)

エズラ・パウンド(1885~1972)は、この詩を1910年代に、パリで作った。アメリカの「失われた世代」の一人の詩人が、母国以外の国で、短詩を作りえたことは、驚くべき事実である。地下の「駅」は、コンコルドであり、その上には、エジプトのルクソールから運ばれたオベリスクが、いまもそびえ立っている。エズラ・パウンドによる、この記念碑的短詩は、極度に国際的なのである。チェンバレンの厳しい否定とはうらはらに、20世紀はじめから、俳句のような短詩は成功をおさめてきた。このパウンドの短詩から、どういうイメージを受け取れるだろうか。普通の現実的な光景ではなく、私たちに存在論的で神話的ななにかを思い起こさせる、印象的で暗示的な、予期せぬイメージではないだろうか。
1920年代から30年代にかけて、フランスの詩人たちは、俳句創作に夢中になった。たとえば、ダダイスト詩人であり、シュルレアリスト詩人である、ポール・エリュアール(1895~1952)は、たくさんの俳句(俳諧の名のもとに)を、短詩ともども書いた。エリュアールの最も美しい俳句は、1920年に生まれた。

歌う歌に真心こめて
彼女は雪を溶かす
鳥たちの乳母
(『ここに生きるために』、1920年、フランス)

第一次世界大戦に動員され、エリュアールは、俳句に出会った。俳句のような短詩は、詩以外の混ぜ物なしの詩的なイメージそれだけ、というエリュアールの詩の理想であった。彼の俳句自体は、われわれの常識を超えた純粋なイメージとなっている。このイメージは、この短詩いっぱいにはめ込まれた暖かい結晶である。エリュアールの深い存在論の暖かい結晶である。このように何度も何度も、チェンバレンの俳句否定は、詩的エネルギーを充填した短詩によって裏切られてきた。
日本では、1930年代、新興俳句の書き手が、第二次世界大戦中の経験と想像力に基づいて、超現実的な俳句を作り出そうと努力した。渡辺白泉(1913~1969)は、1939年に次の俳句を書いた。

戦争が廊下の奥に立つてゐた
(『白泉句集』、1975年、日本)

まさにパウンドやエリュアールの場合と同じように、白泉の俳句自体、純粋なイメージとなっていた。この純粋イメージは、戦時を反映しているから、現実的であり、このイメージは、日常生活を超えているから、超現実的なのである。
いまこう言うことができるだろう。さまざまな国における20世紀の前半、俳句は、純粋なイメージを作り出す新しい方法を発見した。この方法から、断片的だけれども、詩的なエネルギーが詰められたイメージが生まれ出た。この方法こそ、世界俳句の基盤だ、と私は考えたい。この基盤は、20世紀に、二つの世界大戦をへて、ひそかに誕生した。この基盤が認知されるまで、20世紀の後半すべてが、私たちには必要だった。
それでは、21世紀の世界俳句の可能性とはなんだろうか。これが、私たちの課題なのである。まず最初に私が言っておきたいのは、世界俳句はまだ無限の可能性として孕まれたままだということである。

いくつかの意味深い例をあげてみよう。

フランスのブルターニュで、アラン・ケルヴェルヌ(1945~)は、一種の魂の俳句を書いた。

あかつきのそよかぜ
洗濯の少女が
身震いする
(『ブルターニュ巡礼』、2001年、フランス)

実際にこの俳句から、現実的なイメージを受け取れるが、このイメージは純粋な魂に染めあげられている。この俳句において、人間と自然は、原初的な関係に置かれている。
昨年、私は、ポルトガルの詩人、カジミーロ・ジ・ブリトー(1938~)と、百句からなる連句を巻いた。この連句のなかで、ジ・ブリトーは、英知の詰まったことわざに近い俳句を私に示した。

都市! 砂の
一粒! 銀河の
断片!
(「虚空を貫き 1」、「吟遊」第17号、2003年、日本)

この俳句は典型的だ。その虚無主義的な断定が、宇宙的イメージとともに、虚無主義のあとの励ましを、私たちに与えてくれるからである。
私の講演を終える先立ち、あえて私自身に関することがらに、触れさせていただきたい。この二年間、私は「空飛ぶ法王」と題した俳句連作を行なっている。この創作がいつ終わるのか、自分でも予想がつかない。

空を飛ぶ法王 戦火は跳ねる蚤か

空飛ぶ法王何度も何度も砂を噛む
(「空飛ぶ法王4」、「吟遊」第18号、2003年、日本)

ある日、私の夢で、「空飛ぶ法王」ということばを、私自身がつぶやいた。それから、「空飛ぶ法王」がなにを意味するのかわからずに、「空飛ぶ法王」俳句創作を始めた。「空飛ぶ法王」のイメージは、かなり明瞭だが、キリスト教を茶化したものでしかないかもしれない。
この俳句連作を続けているうちに、とうとう次のことが理解できるようになった。「空飛ぶ法王」という移動する視点から、地球上に起きうるすべての出来事が観察できる。固定されていない、移動する、想像上の視点を、今世紀、私たちは獲得した。
それゆえに、世界俳句は前途有望である。もしも、それぞれの国の俳人が、私たちの新世紀にふさわしい、真に詩的な方法を見つけるのならば。

世界俳句協会編『世界俳句2005』(西田書店、2004年)所収。

ダウンロード版-Word