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俳句9条の会 案内と新聞記事
A Farwell Party for Mr. Chaoketu Siqin: From His Encounter with Haiku R・スチンチョグト氏送別会――俳句との出会いから Japanese
R・スチンチョグト氏送別会――俳句との出会いから
Rikido TOMIKAWA
富川 力道
2006年1月9日、文京区千石にあるモンゴル料理シリンゴルで内モンゴルの詩人R・スチンチョグト氏(斯琴朝克図、Chaoketu Siqin)送別会が行われた。氏と親交のあるモンゴル人と日本人の友人ら十数名が集まり、美味しいモンゴル料理を食べ、ウォッカーで乾杯しながら思い出話に花を咲かせた。この席に、世界俳句協会の創立者で著名な俳人の夏石番矢先生、それに鎌倉佐弓先生と高宮千恵先生らの姿もあった。一見不思議な組み合わせである。詩人の送別会に相応しく、詩の朗詠あり、歌ありと大いに盛り上がった。
R・スチンチョグト氏は内モンゴルでは名のある若手詩人で、2001年に刊行された『掌で涸れた永遠の水』(中国語訳は『失楽的天堂』)という詩集が高い評価を受けた。同詩集に収録されている「子供たちに地球をあげよう」(1985年)という詩が内モンゴルの小学校の教科書にも採用されている。遊牧民の家で生まれ育った彼の詩の原点は遊牧文化であり、その作品からは大草原の美しさへの驚嘆とそれが失われていくことへの悲痛な思いが常に読み取れるのである。
彼は二回目の来日の際に、俳句と出会い、その奥深さに惹きつけられたという。モンゴル民族独自の口承文芸の一つである「世界の三つ」(Ertontsyn gurav)という三行教訓詩のリズムが俳句のそれに相通じるものがあり、俳句は非常になじみやすかったという。ある日、神保町の古本屋で『世界俳句2005』を見つけて、宝の山を探し当てたかのように喜び、裏表紙の住所を頼りに夏石先生のご自宅まで駆けつけた。モンゴル人らしく、事前の連絡もなしに、だ。長髪で不精ひげを生やした、自称モンゴル人で俳句が好きであるというこの招かざる客を夏石先生はご親切に招待し、二人はすぐ意気投合したという。二人の運命的な出会いである。と同時にスチンチョグト文学が俳句へと転換した瞬間でもあった。それから氏は夏石先生の人柄と作品に傾倒し、先生との親交を深めていった。先生のご好意により『世界俳句2006』に最初の俳句を載せてもらったほか、東京で行われた「日欧現代詩フェスティバルin東京」で世界的な俳人たちに混じって書き下ろしの俳句を朗読した。彼はその後俳句を作りつづけ、現在内モンゴル初のモンゴル句集の出版準備をしている。もちろん夏石先生は彼の句集に「狼の心臓に青空あり」という序文を寄せている。スチンチョグト氏は狼が大好きだからである。彼は「今回の来日で俳句と出会い、そして夏石先生と出会ったことは自分にとって大きな財産となった。これから内モンゴルで俳句の世界を切り開きたい」と感無量の様子だった。
送別会ではモンゴルや俳句が話題を占めた。モンゴル人の集まりではいままでに見られなかった不思議な雰囲気だ。モンゴル国文化教育大学の牧原学長は、同大学で俳句の講義があることやスチンチョグト氏を講師として招聘する考えがあること、そして近い将来に夏石先生のご協力のもと、モンゴル・日本の俳句の集いを開きたいという構想も明かした。夏石先生もモンゴルの俳句に関心を示した。実際、モンゴル国でシリーズとして刊行されている『世界の優秀詩歌』の第三巻が「日本の詩歌―俳句・短歌・現代詩」で芭蕉から近代詩人の代表作が紹介されている。すでにモンゴルにも俳句の風が吹きはじめているのだ。スチンチョグト氏も帰国前に成田空港から夏石先生へ電話で別れのごあいさつをし、ぜひモンゴルで世界俳句大会を開きたいと伝えたそうである。
夏石先生をはじめとする日本の俳人と内モンゴル詩人の出会いが大きなエネルギーになってモンゴルというもう一つの俳句の世界が開拓される。そんな直感がした送別会でもあった。
A Report on the 3rd Wellington International Poetry Festival 烈風のなかのことば――第三回ウエリントン国際詩祭から
Ban’ya Natsuishi 夏石 番矢
南半球では、真夏にクリスマスが祝われ、太陽が東に沈む。そんな南半球の、ニュージーランドの首都、ウエリントンから、国際詩祭への招待状が、突然メールで送られて来たのは、昨年の五月。国際交流基金の旅費助成金が、同じ日本から参加の天童大人とともに認められて、十一月の寒い成田空港をあとにした。
これまで、俳句の国際イヴェントとは別に、国際詩祭は、二〇〇一年のスロヴェニアを皮切りに、マケドニア、ポルトガル、イタリア開催のものに招待されて、参加してきた。一つの詩祭から別の詩祭へと、梯子をしたこともあるが、これは海外の詩人たちの世界では少しもめずらしくない。今年も、リトアニアとマケドニアでの詩や文学の国際行事に参加する予定だ。詩祭の梯子を、また行なうことがあるかもしれない。
海外での主要な詩祭は、まず国際詩祭。自国のみならず他国からの参加詩人から、ノーベル賞受賞者が出ることを、それぞれの詩祭が誇りにしているし、そういう実績を積み重ねてきた詩祭も少なくない。私が参加した詩祭のなかでも、開催国の中央政府の力の入れかたがすごいのが、スロヴェニアのヴィレニッツアとマケドニアのストゥルーガである。日本からの参加者がめずらしいらしく、ほとんどの国で、私の顔はテレビに登場した。さらには、ラジオや新聞向けのインタビューも受けた。スロヴェニアでは、私の滞在中に、haikuと名付けられた携帯電話が、テレコムから発売された。
海外では、日本の詩で最も注目されているのは、俳句であり、古典の代表者として芭蕉があり、私は現代の生きた俳句の代表者として受けとめられているらしい。 国際的に活躍していると言われている日本の詩人は、たしか何人かいるはずだが、実際に私が国際詩祭に出てみると、ほとんど影もかたちもない。唯一の例外として、「白石かずこの詩の朗読がダイナミックだった」と、インドとコロンビアの女性詩人が私に語った。
ウエリントン中心街
話をウエリントンに戻そう。私たちがウエリントン空港に到着したのは、十一月二日の昼。風がとても強い。公式行事ではないが、その夜の夕食から、詩祭は始まった。参加詩人の初顔合わせを、小さいタイ料理レストランで行なったわけだが、遅れてレストランに到着した、ロシアの女性詩人の顔を見て、どうもどこかで会った気がする。相手も私を覚えているらしく、二〇〇三年のマケドニアのストゥルーガ詩祭で、私たちは出会っていたことがわかった。そのときは、互いにあまりことばを交わさなかったが、二度目となると、うちとけかたが全然ちがってくる。詩祭の醍醐味の一つは、こういう会食のさいの会話にある。十一月二日の会食から始まり、詩祭最終日の六日まで、何度も私たちは、食事をともにした。夜の朗読が予定より大幅に遅く終わって、食事のラストオーダーに間に合わず、アイリッシュバーで、フライド・ポテトとお酒だけで、夜を徹しながら、語りあったことも、なつかしい思い出だ。ニュージーランドの若い詩人、ドック・ドラムヘラーは、幼いころ、自分の父親の幽霊を見たと、バーのバルコニーでうち明けてくれた。
また、会話は、さまざまな国の詩人の品定めに及ぶこともある。そこで、日本の現代詩人が言及されないのは、とても残念だ。 参加者のあいだの会話は、英語だけではなく、天童大人を含め、何人かはスペイン語で語りあっている。私にフランス語で話しかけてきた詩人もいた。今回の参加詩人の国籍を列挙すると、ニュージーランド、オーストラリア、日本、米国、メキシコ、インド、アイルランド、ロシア。アルジェリアからの亡命詩人も一度だけ登場した。聴衆はさほど多くないが、地元ニュージーランド以外では、チリ、コロンビア、スウェーデンからも、わざわざ駆けつけた人たちもいた。現地滞在中の日本人も見かけられた。
俳句朗読中の夏石番矢 2005年11月3日 国立博物館テ・パパ ウエリントン
ウエリントン国際詩祭は、歴史が浅く、今回が第三回。規模も小さいほうだ。これまで下りていた国からの補助金が下りず、主催者のロン・リデルとサライ・トレス夫妻は、運営に苦労していた。それでも、いやそれだからこそ、アットホームな雰囲気の濃い詩祭だった。
詩祭のメインは、朗読である。作者が母国語で原作を朗読し、英訳をニュージーランドの詩人が読む、これが基本。どの詩人も、四回か五回、朗読の時間を十五分ぐらいずつ与えられた。会場は、国立博物館テ・パパをメインとして、ウエリントン近郊の図書館や博物館、市立芸術ギャラリー、小劇場など。 朗読は、なかなか多彩であった。ニュージーランド先住民マオリのハーフ、ヒネモアーナ・ベーカーは、美しい声の歌手でもある。ギターを片手に、短い自作の詩を、澄んだ高音を響かせながら歌う。
インドの詩人、プラバル・クマール・バスは、なまりのある英語できまじめに朗読するのだが、「ファイルに犀が隠れていた/ある日犀はファイルから飛び出た」で始まる「犀の遁走」のユーモアに会場は沸いた。私は彼に、「プラバル、君はインド詩のカフカだね」と祝福のことばを送った。ユーモアは、オーストラリアの学者詩人、グラント・コールドウェルも披露してくれた。ロシアのアンジェリーナ・ポロンスカヤは、低く重々しく終息する声を聞かせる。他方、アイルランドのジョン・F・ディーンの、静謐な朗読も、かえって味わい深い。彼とは、日欧現代詩フェスティバルin東京で再会する。
朗読するジョン・F・ディーン
朗読するプラバル・クマール・バス
米国でイラク戦争に抗議する反戦詩集を編集したサム・ハミルは、日本滞在経験があり、尺八演奏をイントロとする朗読を示した。彼が登場する反戦詩運動のビデオも、上映され、多くの聴衆の感動を呼んだ。メキシコ系米国詩人、カーマン・タッフォラは、詩のパフォーマンス・セッションで、老婆の姿で、わざとメキシコなまりで自作を読んだ、と言うよりは、演じてくれた。
老婆に扮するカーマン・タッフォラ 2005年11月5日 小劇場ハッピー ウエリントン
最も現代的パフォーマンスは、パソコンによる画像や動画の上映を組み合わせて、前出のドック・ドラムヘラーが行なった。ポルノ画像も取り込んでの「戦争はポルノ!」という挑発的パフォーマンスには、良識豊かな詩人の顰蹙も買ったが、私は十分に楽しんで、次の俳句を作った。
風の首都「戦争はポルノ!」と叫ぶ詩人 (「風の首都、ウエリントン」、「吟遊」第29号)
わが同胞、天童大人は、からだ全体から声を出し、とくに「大神 キッキ・マニトウ」の朗読によって、いかなる神かは知らずとも、「キッキ・マニトウ」の絶叫は、忘れられなくなった。 私は自作俳句を朗読したのだが、いずれも好評だった。「空飛ぶ法王」は、英訳を読んだドック・ドラムヘラーが、笑いの発作のため、朗読を中断するほどの笑いを、会場全体に喚起し、前出のヒネモアーナ・ベーカーが、自分のラジオ番組で、シリアスな俳句として紹介してくれた。戦争に関する俳句の朗読に対しては、会場が静まりかえった。 主催者のロン・リデルは、表情豊かな朗読者。妻への愛の詩「君に着せよう」(「吟遊」第29号)はやさしく静かに、おどけた詩はコミカルな身振り手振りを添えて読んだ。
朗読するロン・リデル 2005年11月4日 アッパー・ハット図書館
これらはいずれも、晴れていても、南極からの烈風吹く戸外をよそに、暖かな雰囲気に包まれての朗読だった。参加詩人の作品を集めて出版されたアンソロジー『Towards the impossible』(ロン・リデル、サライ・トレス編、Casa Nueva、コロンビア、二〇〇五年)が、朗読の記憶をいつも鮮明によみがえらせてくれる。