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「Book Review」カテゴリーアーカイブ
夏石番矢と可能なものの翼ある働き ―『未来の滝』についての考察
夏石番矢&カジミーロ・ド・ブリトー『連句 虚空を貫き』
A Future Waterfall: Ban’ya Natsuishi’s Modernism(Japanese)
Ban’ya Natsuishi, A Future Waterfall: 100 haiku from the Japanese, second revised edition, Red Moon Press (P. O. Box 2461, Winchester VA 22604-1661, USA), 2004, ISBN 1-893959-46-5, US$12.
Red Moon Press: redmoon@shentel.net
ジャック・ガルミッツ(米国)
和訳 湊圭史
ひとは誰しも、二つの方角を向いている。過去に向けては遺産を受け継ぐ者であり、未来に向けては先頭をゆく旗頭である。そのどちらの立場においても、解釈者としてある。それは、過去がつねに問い直されるものとしてあり、また、未来はあくまでも一時的な結果に過ぎないからだ。言いかえるなら、ひとは誰しもがモダニストなのだ、本人が意図しているかどうかに関わらず。だが芸術家でありうるのは、この点を理解しているものだけである。残りは教条主義者か、もしくは偶像破壊者であるに過ぎない。
レッド・ムーン・プレス社が昨年(2004年)、『未来の滝――日本語作品からの百句 A Future Waterfall: 100 Haiku from the Japanese』を再版するに至ったことは、こうした見地において、他に変えがたい重要性をもつ事件である。それは、この作品が成功を収めたことの証しであり、つまりは、夏石氏によってなされた過去を現在において鍛えなおす試みが、幅広い読者層に――調性を欠き、また時には不調和でありさえする――響きを与えたことを示している。では、どうして夏石氏の作品が、現代の詩の世界において、大きな影響を及ぼすことができたのだろうか。
次の句は、この書の中心をなす作品でも最も優れた句でもないが、しかしながらその信条を示すものと見ることができる。
嵐があやす千年杉を捨てて来た
I came away, abandoning
the Thousand-Year-Old Cedar
dandled by the storm
この句は、十七世紀に松尾芭蕉によって書かれた一句「三十日月なし千年の月を抱く嵐」を背景として読まなければ、ほとんど意味をなさないであろう。夏石氏の句には、モダニズムの本質が刻まれている。先行作品とそこに示された自然の雄大さへ恭順を拒絶することにより伝統からの独立を宣言しつつも、新しい句のなかに昔の句を引用することで伝統を保持する、という二重の身振りがそれである。古いスタイルと主題は「捨て」られると同時に、貪欲なまでに引き留められている。この句において、夏石氏は彼自身の道を歩み出しており、かつ、「過去の名匠たちを真似ようとしてはならない、彼らが求めたものを自らも求めようとしなさい」という芭蕉からの助言に見事に従っているのだ。そして、この過去の名匠たちが求めたものとは、自然との根源的な関係、それ以外の何でありうるだろうか。
伝統が与えてくれる古びた座(ロキ)を棄て去ったあと、夏石氏の歩みはどこへ向かったか。それはひとつには、二十世紀において築かれた大道のうえを進んできた。同時代の他の俳人たちの作品と同じく、彼の俳句は、この詩型がより形式ばって捉えられていたそれ以前の範囲を踏み越えて、多様な主題を取り入れることによって成長してきた。夏石氏はテレビやセックス、新聞、官僚政治、送電線、その他、古典期の俳人たちが思いもよらなかった主題をとりあげる。この姿勢そのものは、それほど新しいものではない。しかし、夏石氏は多様な主題を描きだす過程において、それまでの俳句芸術では見られなかったような独自性を発揮するのである。
まら
子のを吸ふ母やここ桑の海
A mother sucks
her baby’s cock
amid a sea of mulberry leaves
一読して、この句の近親相姦のイメージに、読者は驚かされる。しかしながらこの句が用いているのは、非常に伝統的なスタイルである。俳句の要点は通常、イメージの並置にあると言われてきた。そこでは二つの語句が並べ置かれることによって互いを照らし出し、そのことで第三の新たな要素となる意味を生み出すのである。この句では、様式としてはこの手法が踏襲されており、革新的テクニックが導入されているわけではない。だが冴えが見られるのは、イメージの選択においてである。つまり、春というものは、分別くさい人間の秩序を圧倒してしまうまでに豊穣にしてみずみずしい自然の再生の力、それ以外の何ものであろうか。このことが句において、赤ん坊の性器を吸う母親というかたちで暗示されているのである。世界の産出する力は境界をもたず、そこには否定というものがありえない。このことは下句「桑の海」でべつべつの範疇に属するものが混同されることよって、さらにふかく読むものに訴えかけてくる。海と葉むらの関係は乳児と性的交わりをもつ母親に、正しくは交わらない範疇に属しているという点で類似しているからだ。夏石氏が伝えようとするものが文字通りの近親相姦などではなく、お上品な囲い込みへの衝撃であり、それこそが春という季節が示すものであることに気づくならば、この句の理解がさらに深まるであろう。また別の句「正装の老婆を襲う藤の花 Assaulting/a formally dressed old woman/the wisteria」も、私たちの道徳観に、春が与える衝撃を伝えてくれる。春とは、友人たちよ、お上品なものではない、だから、感傷的な言葉づかいで美化するべきではないのだよ、と。
つるつるの性器と性器が金を生む
A slippery sex organ
and another
give birth to gold
この無季の句は、季語に代えてキーワード(ここでは性)を使用するという夏石氏の美学が、創造的効果をもたらす好例である。この句はほとんどメタ俳句と呼ぶことができるほどだが、それは二つの要素を併せることで第三項に至るという、この句自体が構成として利用している手法そのものを表した句だからだ。「つるつるの」という適切に選ばれた形容詞が、あざらしなどが泳いでいる、しっとりと濡れた生き物たちが戯れている印象を与え、さらに連想によって、湧き出る水、そして命に結びつく。締めも秀逸、まるで錬金術のようだ。私たちの愛から、それが濡れそぼっているにせよ、そうでないにせよ、金というもっとも貴重な元素が生まれでるのである。また、二つの元素をそれらが燃え上がり第三のものが現われるまで結び合わせるというこの技術に専心することにおいて、夏石氏は錬金術師の典型となるのである。
桜(サクラ)散(チ)ル大(オホ)イニ血(チ)ヲ吸(ス)フ新(シン)聞(ブン)紙(シ)
Cherry blossoms fall:
newspapers
suck in a great deal of blood
彼の感覚もまた鋭敏である。この句の中に納められた二つの対照的なイメージを心に映しだしてみることで、読者は、自分の中に並存している世界の痛みと美しさによって張り裂けんばかりとなるに違いない。桜の花は種類により白から赤の間の色調をもつが、その外観は二番目のイメージとして描かれた血に染まった新聞に似ている。花びらと新聞紙の質感の間にもまた類似がある。もちろん、新聞は実際に世界中からの死や戦争についての数えきれないほどのニュースを吸い取っている。まるでそうしたことが自然であるかのように、そもそも紙の吸質性に責があるというように、またこの媒体そのものが、扇情的な話題に乾いている生きものであるかのように。だが右の句の二つのイメージが静止状態に置かれることで、世界のもつ優美さと血塗れのさがが抱擁し合って、愛や意義や理解を求めて、お互いの顔を覗き込んでいるように見えてくる。そして、それらを抱く私たちの心は、解放を求めてほとんど叫びを上げんばかりになる。
電線を鳥を花火を雲を下痢する
I diarrhea
electric wires, birds, fireworks
and clouds
彼はまた粗野と神秘を同時に表すことができる。自らの内部に世界を抱え込み(世界はそれを認識する精神と不可分であろう)、次いでそれをもはや取り戻すことが出来ないようなかたちで解き放つそのさまは、ウォルト・ホイットマンが群集と奇跡を抱え込むのにも似ている。
テレビに巨根踊るマンハッタン零下
On television
a large root dances
Manhattan below zero
一方で、彼は辛辣で客観的にもなる、外国の文化に対して外部からの観察者がそうであるように。突然訪れた強烈な寒気のなか、ニューヨーク市街のテレビに映し出される熱狂的活動は、巨大で露出された神経か男根が縮んだりぴくぴくしたりして、馴染みのない脅威に対して敏感になっているさまと重なる。そしてニューヨーク市は現在もまたこれまでもずっと、容赦ない厳格さをもって住民と彼らの感覚的生活に対してきたのだ。「三百年ブルー・ブラック・ブルー・ブラック・ニューヨーク For three hundred years/blue black blue black/New York」。
ファラオの犬を飼う画家へ書く闇の俳句
I write a haiku of darkness
to the painter
who keeps a Pharaoh’s dog
また彼はいつも驚くほど創意に満ちており、俳句の本質は何かについても深い注意を払っている。ここで、私たちは古典的俳句の音数にも、また季を入れるという要請にも従っていない句を前にしている。しかしながら結果は、すぐれて俳句的な俳句である。ここで夏石氏のキーワード概念のもうひとつの使用例である「暗闇」は、人間にとって季節の巡りと同様の意味をもち、またリズムと回帰性をもつ普遍的経験である。この夜景画が効果的であるのは、「ファラオの犬」というフレーズによっている。暗闇に表現を与えるにあたって、死に絶えた文化、そして死者の霊魂を黄泉の世界へ導くという動物神アヌビスよりも適切な主題があるだろうか。この句の引喩の使用は巧みであり、この仕掛けがほんの数語のみのこの句の内の暗闇に、驚くべき深みを与えているのだ。まさにヒエログリフの黒によって見事に描き尽くされた句である。
朝日夕日も見えざる河口を母と呼ぶ
The estuary where
neither the rising nor setting sun’s visible
I call mother
最後に、彼は本当の意味における柔和さや慈悲も持ち合わせている。不在を扱ったこの句は、ほんのわずかの言葉で、母親に対する人間の真の感情を伝えてくれる。この句が示す感情は、すべての大人になった者が自分の母親に対して抱くものだといって差し支えないだろう。ひらかれつつある未来すべての、その親しい源であるものが見えなくなり、目の前から消えてしまう。「河口」とは、それ自体は小さくとも、果てのない世界に向けて広くひろく溢れ出てゆく生を育むものであり、その先においても如何にしてか始まりよりの影響を与えつづける。それでも時間の他の流れと合流して消えていってしまうのだが、その後もいとおしく思いおこされ続けるものである。夏石氏の御母堂が本当に句が暗示するように亡くなられたものかどうか私には定かではないが、ひとひとりの生において、母とは、常に白日の内には見出すことができない、痛々しい不在なのである。
編者のジム・ケイシャン氏はこの現代俳句の本に、数多くの俳句に加えて夏石氏のインタヴューと講演を収めている。夏石氏の散文をこのように収録したことは慧眼であり、この書はまたひとつの重要な次元を得ている。夏石氏に馴染みのなかった読者は俳句の歴史に対する彼の所見を聞く機会を得られるし、また、彼が創始したキーワードの概念によって季語のそれを置き換える試みが、古典的俳句での季語の使用とどのように異なるのかを、夏石氏自身の口から聞く機会を得ることができる。そして、俳句のみならず詩全般におけるモダニズムに関する彼の見解も聞くことができるのだ。収められた句を読んだあと、そこに解明の光を当てる散文を読む。そうすることで、また別の角度から俳句を読み直すことも可能である。この本そのものが、俳句とよく似た構成をとっている。二つの部分をもち、そのそれぞれがさらなる総合に向けて貢献しているのだ。
私たちはこの作品をもたらしてくれた夏石氏、また入手可能にしてくれたケイシャン氏に感謝するものである。
ニューヨーク、2005年
A Future Waterfall: Ban’ya Natsuishi’s Modernism(English)
Ban’ya Natsuishi, A Future Waterfall: 100 Haiku from the Japanese, second revised edition, Red Moon Press (P. O. Box 2461, Winchester VA 22604-1661, USA), 2004, ISBN 1-893959-46-5, US$12.
Red Moon Press: redmoon@shentel.net
Jack GALMITZ (USA)
Every man faces in two directions. To the past, he stands as a forebear. To the future, he stands as standard bearer. In either stance, he is an interpreter, for the past is always contested and the future is the temporary outcome. Every man is a modernist, in other words, willingly or no. Only those who know this are artists. The rest are dogmatists or iconoclasts.
The reissue last year (2004) of A Future Waterfall: 100 Haiku from the Japanese, by Red Moon Press, seen in this perspective, is an event of singular importance. It signals the success of the work. This signals that the reshaping of the past in terms of the present as performed by Mr. Natsuishi has struck a chord- atonal and sometimes discordant- in a wide audience. The question remains, though, as to what accounts for Mr. Natsuishi’s widening influence in the world of modern poetry.
Though it is not the centerpiece of the book, or its best poem, the following poem might well stand as the book’s credo:
I came away, abandoning
the Thousand-Year-Old Cedar
dandled by the storm
The poem works almost exclusively by allusion to a poem of Matsuo Basho written in the seventeenth century: the last night of the month, no moon: / thousand-year-old-cedars besieged by a storm. Mr. Natsuishi’ poem inscribes within it what is essential to modernism: a proclamation of independence from tradition in the rejection of the earlier poem and its submissive posture to the grandeur of nature, yet simultaneously the preservation of that tradition in referencing the old poem in the new. The old style and subject is “abandoned,” yet devotedly retained. Mr. Natsuishi sets off on his own path in this poem, yet he strikingly adheres to Basho’s advice to poets to not imitate the ancient masters, but to seek what they sought. And what was it the ancient masters sought, if not an original relationship to nature.
Having abandoned the ancient loci of tradition, where has Mr. Natsuishi’s path led. Partly, his path has progressed along a road that has been in the building for the last century. His haiku, like that of others in the twentieth century, has grown by including within itself a greater scope of subject as new terrain than the form allowed in its more formalized past. Mr. Natsuishi writes on subjects such as television, sex, newspapers, bureaucrats, electric wires, and cultures undreamt of by the ancients. There is nothing exactly new in this approach. Yet, Mr. Natsuishi brings originality to this process of inclusion in the art of haiku hitherto unseen.
A mother sucks
her baby’s cock
amid a sea of mulberry leaves
At first sight, this poem strikes the reader as shocking in its use of incestuous imagery. Yet the poem in style is really quite conventional. Conventional haiku has been said to be the juxtaposition of images, whereby its two phrases so placed shed light on one another and thereby create a new, third element of meaning. This poem utilizes this technique in its manner and introduces no technical innovation. The images chosen are quite smart, though. For what is spring if not the lush, reproductive urge of nature that is so luxuriant as to overwhelm discreet human order. That is implied in the poem by a mother sucking her baby’s cock. The procreant urge of the world knows no borders, no negatives. This is further conveyed in the haiku by the categorical confusion in the phrase “sea of .leaves,” for sea and leaves, like mother having sex with an infant, are categories that do not properly belong together. If the reader realizes that Mr. Natsuishi does not mean the incest literary, but as the shock to decorum that is spring, then the poem would be better understood. Again, he conveys this shock of spring to the moral sensibility in the following: Assaulting/a formally dressed old woman/the wisteria. Spring, my friends, is not decent and we should not poeticize about it in saccharine terms.
A slippery sex organ
and another
give birth to gold
This poem without a seasonal reference is a good example of how Mr. Natsuishi’s aesthetic of using keywords-here sex-in its place can be used to creative ends. This poem can almost be said to be a meta-haiku, for the poem is about adding two elements and arriving at a third, which the poem utilizes in its construction. The adjective “slippery” is well-chosen: it gives the impression of seals swimming, of moist living beings playing together, and by association is indirectly associated with the waters of spring and life. The finale is fine, like alchemy. Out of our love, sloppy wet or not, comes the most precious element, gold. And, out of his devotion for this art of joining two elements till they fire into a third, Mr. Natsuishi is the archetypal alchemist.
Cherry blossoms fall:
newspapers
suck in a great deal of blood
He is also very sensitive. If you hold these two contrasting images contained in this poem in your mind, you would fairly burst with the hurt and beauty of the world simultaneously existing in you. Cherry blossoms, white or red depending on what kind, in appearance resemble the newsprint and blood conveyed in the second image. There is also a similarity in the texture of petals and newsprint. Of course, newspapers do absorb a tremendous amount of news about death and war all over the globe almost as if it were
natural, as if the absorbent quality of paper were responsible, or as if the medium were alive and thirsted for such tabloid material. If the two images are held in suspension, though, the tender beauty and gory nature of the world seem to hold one another in an embrace, each looking in the other’s face for love, explanation, and understanding, till the mind holding them together fairly screams for release.
I diarrhea
electric wires, birds, fireworks
and clouds
He can also be crass and mystical at the same time, containing within himself the whole world (for what world is separable from the perceiving mind) and letting it fly out not able to hold it back anymore, somewhat like Walt Whitman who contained multitudes and miracles.
On television
a large root dances
Manhattan below zero
Or he can be incisive and detached, as an outside observer can be of a foreign culture. In sudden, deep freeze, the frenetic activity seen on television in New York City is much like a giant, exposed nerve or root retracting or twitching to keep alive against an unfamiliar threat. And New York City is and always has been unrelentingly stern and harsh to its inhabitants and all its sentient life: For three hundred years/blue black blue black/New York.
I write a haiku of darkness
to the painter
who keeps a Pharaoh’s dog
But, he is always immensely inventive and deeply aware of what is the essence of haiku. Here, we have a poem that neither caters to the syllable count of classical haiku nor to its requirement of a seasonal reference. Yet, the result is haiku par excellence. ”Darkness,” another use of the keyword concept of Mr.Natsuishi, is a universal experience, as meaningful to human beings as are the seasons and as rhythmic and recurring. This nocturne relies for its force on the phrase “pharaoh’s dog,” and what better expression for darkness than reference to a dead culture and an animal deity, Annubis, who led the souls of the dead to the underworld. The poem uses allusion well and by this device gives depths to darkness that is surprising in a poem of so few words. It is a poem lovingly painted with the black of hieroglyphs.
The estuary where
neither the rising nor setting sun’s visible
I call mother
He is finally truly tender and loving. This poem of absence conveys in few words a man’s true feelings towards his mother. Indeed, the sentiment the poem contains can be said to be the experience of all grown men towards their mothers. What was the fond source of all future unfolding becomes invisible, no longer present. An “estuary,” small but feeding the greater rush of life towards the boundless world, there somehow, lending its influence from the beginning, but lost as it joins the rest of time, and dearly remembered. I do not know if Mr. Natsuishi’s mother has passed on, as the poem may suggest, but in the life of a man a mother is always a poignant absence that cannot be found in the light of day.
Besides the many poems contained in this book of modern haiku, the editor, Mr. Jim Kacian, has included a number of interviews and addresses featuring Ban’ya Natsuishi. This inclusion of the prose pieces of Mr. Natsuishi is perspicacious and adds an important dimension to the work. It affords those readers who are unfamiliar with Mr. Natsuishi a chance to hear his remarks on the history of haiku, to hear him comment on the difference between seasonal words used in classical haiku and his own creation of a replacement for it in the concept of keyword, and to hear his thoughts on the subject of modernism in poetry in general. Having read the poems, the prose pieces cast light on them for the reader, and the poems can then be reread in a new light. The structure of the book is much like a haiku, two parted, with each section contributing towards a synthesis.
We are grateful to Mr. Natsuishi for this work and for Mr. Kacian for making it available.
2005, New York
BAN’YA NATSUISHI: RIGHT EYE IN TWILIGHT NEW HOPE INTERNATIONAL REVIEW
http://www.geraldengland.co.uk/revs/bs209.htm