夏石番矢句集『Metropolitique』論

About Ban’ya Natsuishi’s Haiku Collection “Metropolitique”

夏石番矢句集『Metropolitique』論

metropolitique

夏石番矢句集『Metropolitique』、牧羊社、東京、1985年7月25日刊
Ban’ya Natsuishi, Haiku Collection “Metropolitique”, Bokuyo-sha, Tokyo, July 1985.

Yoshitomo ABE

阿部 吉友

1 「夏石番矢」の登場

句集『Métropolitique』(以下『メトロポリティック』)を始め、夏石氏の三十代の頃の作品群が、私に与えた衝撃の大きさを思う。恐らくこの衝撃は、従来の「俳句」というものに慣れきった者たちに、そして「俳壇」に、等しく与えられた衝撃だっただろう。今回、『メトロポリティック』を論ずるにあたり、その衝撃の本質とは何だったのかを私なりに明らめたいと思った。

本書は、第一句集『猟常記』(昭和58年)に次ぐ第二句集である。昭和五七年から昭和六〇年の間に書いたⅠ六六句を収録した。時期的には第一句集の作品と重なるものもあるが、作品の性質上ここに集めた。また、昭和五八年より書き継いでいる昭和天皇の勅語をもどいた「未定勅語」は、単独で第三句集にするつもりである。
(『メトロポリティック』あとがき、以下「あとがき」)

まず私たちは、『猟常記』(1983年2月)と『メトロポリティック』(1985年7月)、『真空律』(1986年8八月、「未定勅語」が結実したもの)の三句集に収められている作品が、ほぼ同時期に書かれていることに注目しなければならない。同時期に、異なった文体で、異なったテーマで、異なった句風の作品を書き分け、句集に編んでいくというこの意識的な営為が、当時の読者を瞠目させたことは想像に難くない。『神々のフーガ』と『人体オペラ』の二句集に至ってはともに1990年6月の出版である(!)。テーマ別に句集を編纂するという手法は言うまでもなくその後も継続され、句集『地球巡礼』(1998年11月)にまで至るわけで、夏石氏の変化は自在で、留まることがない。
かつてこれほど明確に句集のテーマを限定し、個別に設定し続けた事例が、百年の俳句史上あったとすれば、夏石氏の師・高柳重信の名を挙げるに留まるだろうか。だが、夏石氏の登場が衝撃的だっただろうことには変わりない。それは、「新しい俳人」の登場とか、「新人」の登場とか、一時よく使われた「ニューウェーブ」の登場という表現などではふさわしくないのではないか、と私は思う。つまり、これは「夏石番矢」の登場だったと捉えるのが、最も適切な表現のような気がするのだ。私たちに与えられた衝撃の本質、それは「夏石番矢」という謎深い多面体のような文学者の登場に対するおののきだったと言うべきか。
そして、特に『メトロポリティック』には、『猟常記』とも『真空律』とも異質な、「現代」を生きる「夏石番矢」の姿を等身大に描く手法が意識的に取られているように思われる。それは、「あとがき」に見られるように、『métropolitique』と言うことばの来歴を語る中で、「metro―地下鉄」「politique―政治・政策」「métropole―メトロポリス」などのことばの数々を引いていることからも明らかなのではないか。また、『メトロポリティック』を構成する四つの章の内、その巻頭を飾る「唯名論のあさぼらけ」にはその「夏石番矢」の名が連呼される。「唯名論のあさぼらけ」という章、ひいては『メトロポリティック』という句集自体が、「夏石番矢」の登場を告げる、堂々たるマニフェストだったと言えよう。

2 「唯名論のあさぼらけ」

『猟常記』を通して遙かに望むことができる古代では、名を呼ぶことは禁忌だったが、『メトロポリティック』で描かれる現代では、名は、その存在を主張する重要なアイテムである。

夏石番矢の塒(ねぐら)は極彩色のそら
驟雨をまねく夏石番矢の飛行かな
夏石番矢を縛る薔薇色の地平線
満月や深窓に佇つ一天使

この章における「夏石番矢」は、さながら伝説の巨人であり、その実体は一天使でもある。極端に戯画化され、章全体に諧謔の味わいがある。しかし、「満月や」の句や、

夏石番矢と猫が塔から帰る朝

などに、私は、ペーソスを通り越して、夏石氏自身の孤独な姿を見る。

3 「新未来学」

「唯名論」、「新未来学」、「漆黒史」、「犠論」と、各章のタイトルは学術論文の体裁を取る。その意図は様々に解釈されよう。夏石氏自身が研究者であることにも起因していようが、私はここに、既成の俳句表現に浸りきり、安住しきっている一般読者への啓発(=挑発)を感じる。
挑発は「新未来学」の巻頭句より始まる。

未来より滝を吹き割る風来たる

言うまでもなく、夏石氏の代表作の一つである。虚子に「神にませばまこと美はし那智の滝」と、神として讃えられた滝を吹き割る、未来からの風。『現代俳句キーワード辞典』(1990年4月)に、夏石氏の自解がある。

「未来より」の「風」は、「滝を吹き割る」ほどの威力をそなえる。あたかも「未来」が現在の世界を作りなおす意志を、「風」であらわしたかのようだ。(傍線・筆者)

既成の価値観に安住し、固定した現在の世界。それを作りなおす意志を持つ「未来」。それこそ夏石氏が志向するものではなかったか。
さきほど、「夏石番矢」という謎深い多面体のような文学者、と記した。「夏石番矢」の断面は、当然一様ではない。私はこの句集の随所に、先述の諧謔と孤独、さらに若さゆえの自負、そして抒情を見る。
世間には思い込みがある。例えば、(近年の文学史ではだいぶ是正されてきたが)源実朝が遺し、理想として修練に励んだその和歌のほとんどが王朝風の作品であるにもかかわらず、その万葉調の作品のみに読者の目が注がれ、単純に「万葉調の歌人」と括られ、強調されてしまうことに、私は抵抗を覚えるのだが、同様に、夏石氏を難解・晦渋の牙城のようなイメージで、捉えすぎてはいまいか。以下のような作品に見られる良質な抒情を見逃してはなるまい。

てのひらがこひに星を飼ふなり海潮音
林檎一箇浮かべさまよふ水たまり
街への投網のやうな花火が返事です

また、以下の作品のように、ことば遊びやパロディなどの「俳」の要素も散見され、夏石氏の句作は縦横無尽だ。

金粉を着るLady Maidのクリスマス
雲は形代 翼よあれがバリの火だ
無花果や我はアルファにしてオメガ(聖書からの引用)
大鴉雲の浮橋とだえなむ(「新古今集」の定家詠を想起させる)
涅槃で待つトマトの腐爛と小指の飛翔(沖雅也の遺言か  らの引用)
Paraphysica かの掌上の萩と月(芭蕉句を想起させる)

この章の巻尾を飾るのも、また夏石氏の代表句の一つ。

千年の留守に瀑布を掛けておく

巻頭句「未来より」とは、「滝」「瀑布」ということばによって呼応しており、句集における夏石氏の作品配列の美意識の一端をかいま見ることができる。そして、この句においてやはり注目すべきは、「千年の留守」という気の遠くなるような孤独な時空間において、「瀑布を掛けておく」という超越者の孤独な営為を描いた点ではないか。

4 「漆黒史」

この章は諧謔の色調が濃いという印象を持つ。

国旗は黒旗・刻苦勉励・主婦の友
右翼曲折一日一膳絶好調!
桃の花なんだどうした三鬼の涙
銃後の春の丸太の皮を剥ぐ遊び
シンデレラ・ランプ・プラウダ・ダンピング
立入禁止・かんらからから・Coca-Cola

思わず吹き出したくなるような諧謔に満ちたこの章のタイトルが「漆黒史」というのもイロニカルだ。

これは九重の倒木の紅葉

「これは……」という措辞は、謡曲の常套的言い回しであり、かつて談林派に好まれたパロディの手法だ。

君の処刑前の体重より重い雲だ

前章には

一行の詩が処刑台のやうに響く朝だ

という句もあり、ともに碧梧桐の「曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ」を想起させる。ただ、碧梧桐句より、前句はずっと諧謔が効いており、また後句はずっと美しい。

5 「塵のための犠論」

雪は塵に塵は我にならざるも

この章のタイトルの由来を思わせる句だ。いくつかの読みが可能だ。「雪は塵に」で大きく切れば、美しかった雪は虚しい塵と化し、しかし、塵は我にはならない、という趣旨となろうが、一続きに読めばその逆に、雪は塵には、そして、その塵は我にもならないという趣旨になろう。「ならざるも」という措辞も、「も」を逆接の接続助詞と考えて「ならないけれども……」もしくは「ならなくても……」と解釈してもいいし、上代風に終助詞と考えて「ならないことよ」と詠嘆に解釈することも不可能ではなかろう。いずれの解釈をとっても、私の胸には、一読、寂しさがつきまとう。

畢竟秘門の落書に蛍はとまる

句集一巻の巻末はこの句で締められる。「秘門の落書」とは謎であるが、『真空律』の予告のようにも読める。それにしても、「蛍はとまる」という結句はなんと静かな翳りのあることか。

6 生生流転

私は、再三、「孤独」や「寂しさ」、「静かさ」を指摘してきた。いささか、意識的に過ぎたかもしれない。しかし、『メトロポリティック』を縦貫するこの「孤独」という通奏低音が、「異形の他者を招来しようとしてせりあがった虚空の祭壇」(「あとがき」)たらんとする夏石氏を、地霊との交感や、地球への巡礼、世界との連帯へと、その後導いていくことになるのではないか、と今は考えている。臆説に過ぎないかもしれない。前回『猟常記』論で、金子泉氏は、「現在も未知なる俳句を求めての彷徨は続く」と述べた。私は「夏石番矢」の登場、と前述した。「夏石番矢」は生生流転する。ゆえにその実体は、現時点では明らかにされるはずもない。

*『Métropolitique』の底本は、『夏石番矢全句集 越境紀行』(2001年10月、沖積舎)所収のものを用いた。

(「吟遊」第26号、吟遊社、2005年4月20日刊)