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ハイブリッド天国-泥から掘り出された金貨

アンドレアス・プライス ドイツ
和訳 ほしのまきこ

『ハイブリッド天国』(ISBN978-81-8253-175-8)はインドのCyberwit.net社( http://cyberwit.net/ )によって出版された著名な日本の俳人夏石番矢氏による第3句集です。2007年、2008年と続けて、『無限の螺旋』(ISBN978-81-8253-072-0)、『空飛ぶ法王』(ISBN978-81-8253-106-2)が出版され、134ページ、11章、合計240句もの膨大な量がそこに収録されています。

それまでに著者が没頭してきたことから分かるように、『ハイブリッド天国』は決して単なる量だけの作品ではありません。カバーデザインは日本の俳人であり俳画家である清水国治氏によって提供されました。不思議なことに、多くの詩集と同じように、そのデザインはぴったりと親しみの湧く印象を与えています。アメリカの俳人ジム・ケイシャン氏(世間ではレッドムーン社の創設者として知られています)は原文の俳句の和訳版から英訳を担当しました。最後に、著者の夏石番矢氏は明治大学の教授であり、世界俳句協会の共同創立者・ディレクターであり、吟遊社の代表取締役です。

『ハイブリッド天国』は韻律の固定化、つまり季語や俳句特有の古語に頼っていません。その結果、俳句の制約は現代的であり、国際的であり、非常に根本的でもあり、風格のある芸術であることをよく求めてくる偉大な句を強いて作らされるのです。

チンギスハンの馬は俳句を追いかける

伝統に忠実な独自の方法で、夏石番矢氏はこの句(p.42)にほんの少しの言葉を使用しています。芸術家としての人生のある場面だけでなく、著者の個人的な経験をより普遍的な解釈にまで広げています。ことによると、一見しただけでは分かり難いですが、すぐモリンフール、つまりモンゴルの「馬頭琴」を演奏できる人が出席した詩の朗読であることがその句から分かります。チンギスハンはその時、 偉大な人であり、インターナショナリズムを表す人である役をするばかりでなく、例えば、政治上あるいは軍事力のためのコードとしてさらに広い文脈でも読むことができます。それは、素晴らしい芸術品の代表である俳句とは対照的であると理解するかもしれません。

この調子でどんな解釈も出来得るために、「俳句に従う」ハン自身よりむしろなぜ偉大なモンゴル人のリーダーの馬にすぎないかのという疑問を求めてきます。限りなく深く考えることが起こり得るように思われます。

独自の言葉を使用するために、『ハイブリッド天国』に収められた俳句は、夏石番矢氏が詩的感覚で物質界の泥から掘り出し、むしろ好んで選ぶ(p.72)人によって読まれて、聞かれるように作った金貨に似ています。

泥から掘り出す金貨のような俳句はないか

夏石番矢著2009年『ハイブリッド天国』 アラハバード: Cyberwit.net(ISBN978-81-8253-175-8)

鎌倉作品の童話性をめぐって

Hideki Ishikura

石倉 秀樹

 鎌倉佐弓さんの俳句は童話のようだ、という印象がかねてからあったのだが、どのような工夫があって童話のようなのかが、最近わかった。ここではそれを述べたい。しかし、本題に入る前に、余談を少々。
 某日、本屋の店頭に日本語をめぐる文庫本・新書があまた並べられており、その中から二冊を買った。日本語がなぜ美しいかを説くらしきものと、日本語は学術に向かないとして、やがては滅び去るとするらしきもの。いずれも本の題からの推測。私は、漢詩を書く。私の漢詩は、とりあえずは「てにをは」と動詞などの活用語尾を省く日本語である。言語の合理性を考えれば、詩に「てにをは」はなくてもよい。そう考える私は、日本語は学術に向かない――さもありなん、と思う。そして、日本語がかりに滅びても漢語さえ残っていれば、詩を書くうえでの不自由は私にはない、と思う。しかしもし、日本語がほんとうはとても美しい言葉だとすれば、私は、ダイヤモンドの原石を捨てて人工のガラスのダイヤを拾って喜んでいるだけだろう。だから、日本語がなぜ美しいかを説くらしきその一冊は、私の脳を切り裂いて、私の言語音痴の病巣を白日に晒す鋭いメスであるのかも知れない。
 そこで私は、恐る恐る読んだのだが、その恐怖は我慢に変わり、ついには最後まで読むことができなかった。まず、その本に書かれている日本語が美しくない。どう美しくないかといえば、著者の考えのキーとなっている言葉のほとんどが漢語であるにもかかわらず、その漢語の用い方が美しくない。なるほどその読み方は日本流の音読であるし、多くは日本人が考案した和製成語であるのだから、日本語であると言えないことはない。しかし、大漢字文化圏ということがあるのであって、そのなかの一民族が考案したものであっても、言葉の構造が漢語である成語は漢語である。そういう漢語と日本民族古来の文法と平仮名言葉の混合体である今日の日本語の文章がなべて美しくない、とは私は思わないが、日本語の美を説くらしきその著者の和漢混淆の日本語は、私には美しくなかった。
 どういう日本語が美しいのかが、私にはよくわからない。だから、美しくない、というのは私の主観に過ぎないのだが、美しくないと思うもうひとつの理由に、著者の用語そのものの響きや構文の技術の問題とは別に、著作のテーマの立て方が精確さを欠いている、ということがあった。日本語に限らずどの民族のどの言語にも、美文と悪文があるだろう。だから、日本語はどう書けば美しい文になるのか、ということはテーマとなりえても、日本語でありさえすれば美しいという論は、畢竟、詭弁となるしかない。まして日本語で何ごとかを論じようとすれば、漢語をその論のキーワードとして使う。いにしえのやまと言葉にとって、漢語はカタカナ言葉である。そういうカタカナ言葉を多用しながらも、確かに美しい日本語はある、読んでそのように思える文章はあるのだが、漢語を含めカタカナ言葉とやまと言葉を、どのように混合すれば美しい日本語となるのか、それを明文化し、誰もが納得できる普遍的な説明にまで高めてくれる原理なり方法を、私は知らない。カタカナ言葉は、漢語に限らずの話として、どのようにハンドリングすれば、日本語の構造のなかで、美しく輝くのだろう。
 確かに美しい日本語はある。しかし、日本語という鏡があり、その鏡は過去にあまたの美貌の人を映したのであったのだとしても、その前に立てば、人は必ず美人になれるというものではない。そして、日本語をそういう一個の鏡だとすれば、人を美しく映す鏡は他にもあることを知るべきだろう。
 しかし、人は、それらの鏡を、好きなように選べるわけではない。言葉という鏡と人の間には、空いている所に立てばよいというトイレのそれとは違う、運命的な出会いがある。それらの鏡のいずれかに最初に姿を映したその瞬間から、人の多くは、自らの日々の美醜を、その鏡にだけ映していくことになる。
 世にバイリンガルあり。だから、必ずしも、終生一個の鏡に添い遂げる、ということにはならないのだが、詩歌にもまた、そういう鏡があると見れば、わが国の詩人・歌人・俳人には、終生鏡は一個と決めてかかる傾向が強い。現代詩を書く詩人らは、さしずめ鏡がなくても華粧は可能と信じている人らだが、歌人にとっては五七五七七、俳人にとっては五七五。そういう鏡こそが、自身の魂の営みを美しく映してくれるものと信じている人が多そうだ。普段は鏡を使わない現代詩人が短歌や俳句を詠むことは間々あるようだが、五七五の鏡を使う俳人が五七五七七の鏡の前に立つのは稀であり、その逆も稀。俳人・歌人のこの一所懸命的傾向は、一芸に秀でることを尊しとするわが国の文化ときっと無縁ではない。あれこれ齧って、あれもこれも中途半端になることは、美を能率的に磨くことを好む日本人にとっては、よろしくないとされているのだろうか。
 しかし、そういうなかでも、いろいろな鏡に自身を映すことを試みる俳人・歌人がおり、その努力が美しい日本語作品を生み出していることを、見落としてはならないだろう。日本語は美しいとする論は、俳句で言えば、五七五は美しいという論に比定できる。日本語の方が美しい、というのであれば、何語は美しくないのか、という問いにも答えなければならない。五七五が美しい、というのであれば、
  お多福豆ふふふと暮らせたらいいね
 という鎌倉さんの句は、
  うふふふとお多福豆は暮らしおり
 とした方が美しいといわなければならないだろう。果たしてそうか。
 本題に入る。鎌倉さんの句の全体を通覧すれば、鎌倉さんは五七五にこだわらない俳人であることはすぐわかる。しかし、五七五の句も作る。最近の「吟遊」からそれを拾う。
  葦の角ときどき膝を使いおり
  いちまいの布を乳房へ春の風
  君のそば桜草なら咲いていい
  真実はかすかに尖る木の芽吹く
  でこぼこは楽しからずや薩摩いも
  蔦と壁つかず離れず離れおり
  白髪のすこし羽化して夫婦とや
 全体としてみれば、鎌倉俳句は、およそ二十数字を最長とする短文のなかで考えうる無数の句読の海を泳いでいるのだろう。そして、その中でいっとう多いのは、その実、五七五の句読であるのかも知れない。だから、その作風は、非五七五であっても、反五七五ではない、といわなければならないのだが、それではどういうときに五七五となり、どういう場合は五七五にならないのか。
 五七五と非五七五を対比して考えることは、畢竟、俳句の定型を五七五と認め、それを前提に論を構えることになるだろう。それを鎌倉さん自身が喜ぶかどうかはともかく、五七五の句作りを専らにすることが、作句にどのような影響を与えているのかを、はじめに考えてみたい。
 そこで試みに、鎌倉さんの非五七五の作品を、五七五に作り変えてみる。つまりは、五七五の鏡の前で、化粧をし直す。
  聖橋かいわい夕日みしりみしり
  聖橋みしりみしりと夕日かな
  飛べるかしら蓑虫じっと考える
  蓑虫や飛べるかしらと考えおり
  溝へ雪みぞとて淋しがりやですから
  ○○や淋しがりやの溝へ雪
  部屋冷やしすぎ洗面器笑い過ぎ
  部屋冷えて笑い過ぎたる洗面器
  ハンカチ開く今日がきれいになるように
  ハンカチを開けば今日がきれいなり
  パセリひと呑み鍵かけて来たかしら
  パセリ食み家出て思う鍵のこと
  風の背中にあたまに肩に鬼やんま
  風の背にあたまに肩に鬼やんま
 どうしても五七五にならない非五七五の作品もあるが、このように五七五に作り変えることができる句が少なくない。これを見て、五七五に作り換えて俳句らしくなった、という人がもしいるとすれば、その人は、個性を消してある種定型的な夜の厚化粧の美貌に、視覚が麻痺してしまっているのだといわなければならない。その人は、非五七五作品を一律五七五に私が化粧し直した結果、句の質に大きな変化が生じていることに気がついていない。厚化粧は素顔を隠す。
 「聖橋かいわい夕日みしりみしり」を「聖橋みしりみしりと夕日かな」。これによって、「夕日」が主語となって機能していた童話的な世界が、作者が観察者となって眼前の事象を描く写景の作に成り下がってしまっている。蓑虫もしかり。洗面器もしかり。それぞれ主語として笑い、考えていたのに、五七五の世界では、観察者の視線の客体になってしまう。
 ここで、詠まれるべき対象が観察者の視線の客体となる、ということは、少々わかりにくいかも知れない。そこで、小林一茶の童話的な次の二句。
  雀の子そこのけそこのけお馬が通る
  やせ蛙まけるな一茶これにあり
 これらの句では、言葉を発しているのは雀の子でもお馬でもやせ蛙でもない。一茶である。しかし、
  飛べるかしら蓑虫じっと考える
 じっと考えるのは「蓑虫」。
  溝へ雪みぞとて淋しがりやですから
 淋しがりやは「溝」。この句、私は「溝」です、その「溝」に雪が尋ねてきてくれてうれしい。なぜうれしいかといえば、私は「淋しがりや」なのです、と言っているのだ。
 ここで、童話的とは何かの秘密のひとつがわかる。言葉は本来、人間のものであり、人間以外の者が言葉を発することはない、それが干からびた大人の世界の言葉である。しかし、童話では、人間以外の動物や草木、太陽や風までもが言葉を発するのである。それらが、言葉を発することで、人間のように振舞う。
 この、人間でないものが人間のように振舞う、ということが、童話的であるのだ。上掲一茶の句、雀の子もお馬もやせ蛙も、言葉を発してこそいないが、人間のように振舞っている。鎌倉俳句の童話性はしかし、自ら言葉を発するところまで、踏み込んでいる。「飛べるかしら」は蓑虫の言葉。「淋しがりやですから」は溝の言葉。
 「ハンカチ」の句、「パセリ」の句は、作者自身が主人公として句の中で生き、自ら発語しているものであるだろう。しかし、それを五七五に作りかえると、その生き生きとした動きが凍りつき、作者自身の客体化が起こる。作者はもはや句の中で生き、声を出すのではなく、「私」を見るもう「ひとりの私」という作者の立場に身を移し、自身を観察し、自身の思いを三人称化して、ひとごとのように叙述する。「風の背中」の句も、そういう観察の句である。しかし、観察の対象となっているものへの感情移入あるいは同化の度合いが、鎌倉作品の非五七五は厚く深く、私の五七五は浅い。
 どうして私の五七五は浅くなるのか。これに対する答えとして、はじめに五七五にしたのが私であるということがあるだろう。鎌倉さんと私の言葉の才の差。私が五七五の鏡の前に一人で立つとき、その鏡は、過去に映したあまたの美貌、つまりは先人の佳作の息遣いを私に吹き付けてくるのだ。私はそれを、息が臭いといって、手で払えない。酒の香りを嗅いだかのようにすぐに酔ってしまう。それによって、私自身の読句の経験が蘇り、句に詠むべき事象とそれを観察する私という二元対峙の作句環境が整ってしまう。だから、生き生きとした素顔の鎌倉さんの作品を私が五七五に化粧し直すと、視覚が鈍感な人には美人に映るという誤魔化しの厚化粧となる。先人の佳作はその多くが、作者と詠まれる対象という二元対峙のもとで詠まれている、だから、それらを読めば、作品に詠み込まれた句境が、読者の心に対峙することになるのだ。鏡の前に素顔で立つことは難しい。五七五の鏡の前に立てば、五七五の美人に擬態するということが起こる。
 お店のナンバーワンの女性が普段立つトイレの鏡に私は探りを入れ、それを見つけ、その鏡の前に立ち、ナンバーワンの化粧を真似る。私の五七五は、それをするのだ。しかし、これは、私だけがしていることだろうか。
 作者と詠まれるべき対象の二元対峙は、言葉を発する主体が、句の中にあるのか外にあるのか、ということでも整理できる。句に詠み込まれた事物が声を出す、そのような仕組みで詠まれた俳句が、これまでにどれだけあるのか。多くの句の言葉は、句の外にいる作者によって発せられる。ここでは、句に詠まれた事象は、作者の言葉によって読者に提示される客体であって、言葉を発する主体ではない。
 言葉を発する主体が、句の中に身をおいているのか、外に身をおいているのか、という問題は、俳句と和歌との比較にも見ることできる。俳句に先立つ和歌が好んで扱い、俳句があまり顧みない詩題に、相聞と挽歌がある。相聞は、生きているある特定の個人に対する語りかけであり、挽歌は、死んでしまったある特定の個人に対する語りかけである。alive or deadのいずれにしろ、歌を詠む「我」は、歌を贈る相手である「汝」に対して、心からの言葉を発するのである。そのようにして詠まれる歌の発語者は、わが身をその歌のなかに置く。歌は、「我から汝」への語りかけであるからだ。
 しかし、その「語りかけ」の形式であった五七五七七を継承しつつも、それが連歌に発展すると、その発句である五七五は、「我」から「汝」ではなく、「我」から「汝ら」への語りかけに変質する。「汝ら」は、とりあえずは、その連歌のために参集した不特定の多数の「汝」である。ここでは「汝」の抽象化が進み、「汝」の特定性が薄れ、言葉に占める「汝」の重要性が希薄になっている。
 特定の「汝」を想定しないで発せられる言葉とは、つまりは、独語だ。独語であるから、そこでの言葉には、作者の思いを伝えるための声量が要求されず、「我」はかくあり、「汝」は如何?という個別具体的な対話性がない。相聞と挽歌という特定性のなかでありつつも対話性を保持していた和歌は、連歌となったその瞬間に、実は大きく変質していたのだ。連歌は、発想と発想の対比の妙ではあっても、「我」と「汝」の対話ではない。「我と汝」性が薄められた境地での発語は、対話性をいくらかは含む独語と独語の照応に留まる。
 そして俳句は、その発句が発展したものなのだ。だから、ここで注意すべきは、和歌と俳句の言葉における「我と汝」性の濃度の差は、五七五七七と五七五の字数の差にあるのではなく、言葉をどう扱うかという和歌と連歌の文化の差にあるのだ。同じように五七五七七を単位としつつも、和歌における相聞と挽歌の言葉は、「我」から「汝」への伝達を目的とするが、連歌における言葉は、「我」と「汝ら」との共同作業を目指す。そこにおける「我」と「汝」は、共同作業という無名性のなかへ溶け込んでいき、ついには消滅するだろう。というより、発句を詠む者には、「汝」が誰であるかを特定して詠むことは許されないから、「我」と「汝」の特定性を超える、普遍的だが曖昧な言語環境のなかで、言葉をハンドリングすることが求められる。
 そこで、五七五七七という音数に対話性を強める機能があり、五七五という音数にその対話性を薄める機能があるのではなく、和歌から連歌への発展が、「我と汝」の対話性を薄めたのだといわなければならない。そして、連歌における発句の「汝」を薄めた非対話性が、俳諧連歌の発句に継承され、その発句が俳句に発展したという文化の中で、五七五の鏡は、先人の、語りかける汝がいないという境地での多くの佳作を映してきた。だから、その鏡の前に立つ後続の俳人たちは、五七五に作るときは、句の言葉が、汝に語りかけるという対話性を強めてはいけない、という息を吹きかけられる。
 鎌倉さんの五七五の句
  雀ちゅん仮の世なればちゅんとのみ
 五七五の鏡の前でこれを読めば、鎌倉さんという作者は句の外にいて雀がちゅんと鳴いているのを観察し、「仮の世だからちゅんと鳴くだけか」と独語している、そういう読み方をするだろう。しかし、その読み方は、俳句という伝統文化のなかでのローカルな読み方であり、日本語という鏡が、そう読めと読者に普遍的に命じているものではない。伝統文化のなかでのローカルな読みだけではなく、日本語全体にも通じてこれしかないという読みにするためには、たとえば芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のをと」になぞらえて
  仮の世や雀鳴きおるちゅんとのみ
 と詠むべきだろう。
 だから、前述の読みは正しくない。鎌倉さんの句の正しい読みは、雀がちゅんと鳴いた、どうして「ちゅん」?雀いわく「仮の世ですからちゅんだけでいいでしょう」であり、「仮の世なればちゅんとのみ」の発語者は、雀である。
 何が原因かについては、俳句という言語文化のなかでの風習が多くの俳人を洗脳しているからだ、とするのがよさそうだが、多くの俳句が、句に詠み込むことがらを客体化しているという事象がある。また、一方で、多くの俳句は、五七五で作られているという事象がある。そこで、句中のことがらの客体化は、五七五という句読のリズムと深い相関関係にあるのではないか、と思えてくる。とすれば、五音、七音には、どういう秘密が隠されているのだろう、とも思う。
 日本語は二音を単位として拍を取るということが説かれている。そこでは、五音は、二・二・一となって、最後の一は「間」あるいは「休止符」を後ろに置くことにより拍の足りない部分を補うという。七音は、二・二・二・一、それに「間」。これを図示するに、有音を□、「間」を■として五七五を見れば、その十七音は、次のとおりは十拍になる。
 □□ □□ □■ □□ □□ □□ □■ □□ □□ □■
 五音を詠んで一休み、七音詠んで一休み、五音詠んで最後に余韻。
 余談になるが、日本語が二音を一単位として拍を取るという説は、漢詩を作る私には、とてもリアリティがある。漢詩では、それを中国語で読めば、昔も今も漢字一字で一音節である。それが日本語の読みになると、多くの漢字一音節が、日本語二音となる。二重母音は分解されて二母音となり、韻尾の-ngは「う」あるいは「い」と母音化し、-nは「ん」になる。加えて日本語の「ん」は、中国語の-nに対応しているが、音の上ではむしろ-ngである。また、現代中国の普通話では消滅してしまったが、漢音では存在した-kは「く」あるいは「き」、-fは「ふ」、-tは「つ」と発音される。そうやって、日本人は、一音節の漢字を二音一拍に読み替えてしまうのだ。
 本題に戻る。五七五については、二音一拍の他に、上五下五はゆっくり、中七は早めに読む、ということも説かれている。その結果、五音と七音の発声に費やされる時間は、音数の多少に関わりなく、その長短がほぼ等しくなるという。確かに私も五七五を読み、あるいは詠むときに、発声的には緩・急・緩の心持ちで詠み、時間的には上五中七下五がいずれも同じ長さになるように音読する。あえて言えば、時間的には中七がいちばん短いかも知れない。
 ここから、始めはゆっくり、中さっさ、終りもじっくりという作句のリズム、あるいは心持ちが、その後の句境を支配するのではないかと思えてくる。ゆっくりと詠み始めて、さらに一拍置く。このゆったり感が、詠むべき事象からある種余裕をもって身を引く姿勢=対象である事物から距離を置いて観察する姿勢に転化し、句に詠み込む事象の客体化、を呼び覚ますのではないか。
 そこで、鎌倉作品を再度見てみると、上五が六に詠まれ、あるいは七と出る句が少なからずであることが、興味深い。上五はその句末に「間」を置きやすいが、上六となった瞬間から、その「間」をとることが難しくなる。そこで、上六を読む声は、一気呵成に中七以下へと走る。
  沼を埋める椿の過去は数えきれぬ (六七六)
  金輪際大地となりぬ なりたかったか(六七六)
  「暖かいね」わたしの返事はハミングで(六八五)
  雲には雲の言い分あらん曇り空(六七五)
  一つくらいサイダーの泡下りて来い(六七五)
  辿りつけぬどんなに薔薇を抱えても(六七五)
  朝始まる群青色の糸切れて(六七五)
  母は泉こころおきなく水飲んで(六七五)
  アメノウズメ踊れば団栗も踊る(六四八)
  じゃが芋から見れば単純おむすびころり(六七七)
 上掲「じゃが芋」の句は、六七七ではなく九四七とすべきか。いずれにしても、上六には、中七へ向けての一気呵成性がある。五七五の緩急緩が、六七五では急急緩に、六七六では急急急になる。その結果、句を読む声は、外へ向けての声量を増す。
 ここで、五七五からみれば破格の句作りが、五七五に較べ声量を増すということは、発語がそれだけ文語から口語に近づき、読みが黙読から音読に近づく、ということに注意が必要であるだろう。音読に近づけばすなわち童話、ということに直ちにはならない、しかし、より生き生きと童話的であるためには、文語から口語へ、黙読から音読へと歩を進めていかなければならないだろう。鎌倉さんの俳句の童話的な成果は、人間以外の事物にも人間と同等の発語の権利を付与しているということに先端を行く特長があると思うのだが、そういう句作りは、その必然として、句が声量を増すことを要求する。だから、言葉を媒介として、もの言わぬ事物に語りかける。また、もの言わぬ事物が、言葉の力で人間に語りかけ、働きかけてくる――この童話的雄弁は、五七五の定型を嫌うかのようだ。
  夕焼雲からも二人が見えるはず
  さるすべり無数とは不意にうずまく
  蝸牛どっこい自転車が聳ゆ
  作品がすべて蒲公英は根がすべて
  どうぞお構いなくと守宮がのっしのっし

世界俳句としての品格 ―句集『地球巡礼』を読む

Dignity of World Haiku

―Reading Ban’ya Natsuishi’s Haiku Collection “Earth Pilgrimage”

世界俳句としての品格

―句集『地球巡礼』を読む

junrei

夏石番矢句集『地球巡礼』、立風書房、東京、1988年11月1日刊

Ban’ya Natsuishi, Haiku Collection “Earth Pilgrimage”, Rippu-shobo, Tokyo, November 1988.

Shin’ich Suzuki

鈴木  伸一

 このところ、夏石番矢氏の個人ブログ「ブログBan’ya(http://banyahaiku.at.webry.info)」を読み続けている。このブログには、夏石氏の豊かな人間性と該博な知識が横溢していて教えられることが多いのだけれど、先日、たまたま次の一節に出くわして、えらくショックを受けた。

 

ひとつの言語しかできない人間の思考回路は、平板で貧しい。

 

この少し前の部分には、

 

だいたい、ほとんどの米国人は、アメリカ英語しかできない。しかも、かなり単純な英語しか理解できない。前置詞プラス関係代名詞の構文を会話で使うと、普通の米国人には「ちんぷんかんぷん」だ。

この貧しい言語能力が、いかに狭い見識を招き寄せるか。

多言語の米国人には、良識人が多い。

 

とあり、冒頭の強烈なパンチは米国人に向けてのものだということが知れるが、しかし、ちょっと待てよ…

 

ひとつの言語しかできない人間の思考回路は、平板で貧しい。

 

これって俺のことでもあるよなあ、と思い、正直へこんだ。何しろ、私は日本語しかできないのだから。その上、これまで日本国内からほとんど出たこともないのだ。外国語ができないのは、学生時分、ろくに勉強しなかったせいもあるし、私自身の持って生まれた学習能力の貧困さのためでもあるだろう。海外渡航の経験に乏しいのは、私の現在の仕事が、海外とのつながりのまったくない職種のためだということもあるし、個人としては、経済的な余裕がないことにも因る。さらに付け加えると、恥ずかしながら、飛行機が怖いということもある。

そんなありさまであるから、あらためて考えれば、アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカの諸国を股にかけて詠まれた『地球巡礼』(一九九八年、立風書房刊)を論じるなど無謀もいいところ、「盲蛇に怖じず」とは、まったくこのことだと思えてくる。で、そう思った途端にすっかり意気消沈し、そこからいっこうに筆が進まなくなってしまった。こんなことならブログなど読まなければよかったとさえ考えたが、もう後の祭りである。

 

かくして、何とも気が重いまま数日を過ごしたのち、このままではいかん、と思い直して『地球巡礼』を読み返してみたところ、やはり「いいなあ」、と不思議なくらい素直に思えるのである。ひとつの言語しかできない私の思考回路は、確かに平板で貧しく、見識も狭いだろうが、さりとて、この「いいなあ」という思いは、私にとっては、とても大事なものだ。そして、この思いというのは、世界の中の「俳句」の正当な位置づけのために、日本の多くの俳人の誰よりも心血を注いでいる夏石氏への尊敬の念と、その文学的営為に対する憧憬に由来するものであると言えそうな気がする。

「尊敬」と「憧憬」。夏石氏との付き合いもすでに十数年になるが、この間、私がずっと抱いてきたのは、確かにこの二つの思いであったと、今回、『地球巡礼』を論ずるに際して、あらためて強く感じた。日本では、うまい俳句を作る俳人は多いが、作品と文学的営為、さらに人間性まで含めて尊敬できる俳人は、残念ながらごく少数だ。私は、二十歳ごろから三十年近くも俳句と関わってきたけれど、その経験から導き出された現状認識が、情けないけれど、これである。日本という国の閉鎖的・排他的な俳句社会には私もほとほと愛想が尽き、いわゆる俳壇的な交友というものをほとんど断って、はや十年が過ぎた。だからこそ、夏石氏のような尊敬に値する俳人が身近におり、その謦咳に接することのできる喜びは大きい。 ともあれ、この一条の光明を頼りに、おぼつかない足どりながらも、もう少し本書を読み進めてみようと思う。

 

さて、夏石番矢氏の第八句集である『地球巡礼』(一九九八年刊)の作品群は、先述の通りアジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカの諸国を精力的に往還する中で生み出されている。年代的には、一九九三年から九七年までの五年間に詠まれたもの。その間、九六年五月から九八年三月までパリに滞在するなど、夏石氏にとって、日本以外の各国で過ごす機会が非常に多かった時期でもある。何にせよ、その移動距離は相当なものだろうが、私などにはちょっと見当がつかない。

まあ、それはさておき、日本人が日本国外で詠んだ俳句を一般的に「海外詠」と呼び習わしており、古くは正岡子規の日清戦争従軍俳句(明治二十八年)や、高浜虚子の洋行俳句(昭和十一年)などがある。俳句と同時期に書かれた紀行文でも虚子が使っている「洋行」という言葉は、「外遊」などと共にちょっとレトロな匂いを漂わせ、これはこれで悪くない印象だが、やはりどこか物見遊山的な気分が混じるのも否定できないところだろう。それでも、七十年も前の俳句だから、こんなものだろう、と笑って許せる部分もあるけれど、どうにも笑えないのが、今日もなお虚子と同等か、それ以下のレベルの海外詠しか書くことができないでいる、現代日本の俳人達の無能ぶりである。まあ、悪態ばかりついていても仕方がないので、これ以上は言わないが、ただ、こうした多くの凡庸な海外詠に比べ、夏石氏の作品には、浮ついた物見遊山的な雰囲気が皆無であることだけは言っておかなければならない。何故このように断言できるのかは、のちほど説明するが、まずはこの一点だけをもってしても、子規以後、今日まで無数に書かれてきた海外詠と、夏石氏の海外詠は、根本的に次元が違うものということが分かるだろう。こうした作品群を、夏石氏自身は「地球詠」と名付けているが、大いに首肯できるものがある。

 

ところで、本書の「あとがき」にもある通り、従来、夏石氏は個々の句集ごとに明確なテーマ体系を打ち出し、より構成的な句集という書物の可能性を追求してきた。『真空律』(一九八六年)しかり、『神々のフーガ』(一九九〇年)しかり。『人体オペラ』(一九九〇年)や『巨石巨木学』(一九九五年)なども、また同様である。したがって、これらの句集では、収録された作品それぞれの評価もさることながら、作品集合体としての「句集」それ自体への評価を、より重視してゆくことが必要となってくる。句集という書物は本来、このようにあるべきものだと思うのだが、現在の日本では、「俳句は日記です」などというたわごとを本気で言う俳人もかなりの数いて、そうしたたぐいの俳句ばかりが収められた句集というのは、当然のことながら一貫性に欠け、読後の印象も、まったく散漫なものである。

片や、夏石氏の各句集は明確な意図のもとに構成されたものであり、それゆえ、取り上げられたテーマによっては、句集全体からギスギスした感じやとげとげしい感じ、あるいは挑発的であったり煽動的であったり、といった印象を受けることも少なくなかった。むろん、私はこれをいい意味で申し上げているのであるし、そもそも、個々の作品以上に、句集そのものが評価されなければならない俳人というのも、これまた日本では、きわめて数が少ないのである。

 

もうバリの雲の翁とさようなら

 

アラベスク純白の無を呼んでいる

 

黄色い蝶と広大無辺健忘症

 

太陽も海もとろけてボスポラス

 

ローマのあらゆるところの雄弁術と満月

 

詩は残りパリには煙の桐の花

 

樫の実や霧の上にて祈る人

 

海峡見下ろすケルト十字へ枯葉かな

 

マンハッタンの空虚は光と車と大声

 

それぞれ、インドネシア、チュニジア、中国、トルコ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカでの作。きわめて個人的な印象であるが、これらの俳句のうち、アメリカでの作だけが、どことなく居心地が悪そうな表情を垣間見せているようにも思われる。本書は、俳句が書かれた地域と時期ごとに十一の章に分けられ、章ごとにタイトルが付されているが、アメリカでのそれは、「バブリー・ラヴリー・ニューヨーク」。ユダヤ教の礼拝堂である「シナゴーグ」と、ユダヤ系の人々によって実質支配されているニューヨークのバブリーな金融市場を戯画的に描いた

 

シナゴーグ閉ざされバブリー・マンハッタン

 

という作も並んでいる。

さて、ここで冒頭に紹介した夏石氏のブログの一節を思い出す。米国人へのきわめてシビアな批判精神と、それゆえに感じる違和感のようなもの、アメリカに心底からはなじめないといった思いが、多分、これらの作品の根っこにはあるだろう。

一方、ヨーロッパを中心とした作品はどうかと言うと、夏石氏の内面がずいぶんと穏やかになり、また伸びやかになっているような印象を受ける。ヨーロッパ諸国の文化と人々に対する信頼感と親近感がうかがえると言ってもよさそうだ。時折、夏石氏と電話で話すことがあるけれど、日本にいるときの夏石氏は、日本の文化全体を覆う閉塞感に苛立ち、文化人と称される人々が、裏ではきわめて政治的に立ち回っているという欺瞞に対し、強い憤りを覚えているように察せられる。それが、ヨーロッパでは消え去り、内面に平穏や伸びやかさが訪れているというのは皮肉なものだ。

 

とくにヨーロッパの小さい国の詩人には、安心でき、尊敬できる人がいる。

 

くだんのブログには、こういう一節もある。実際に現地を訪れたことのない私が言うことだから、まことに説得力に欠けるが、ヨーロッパ諸国の文化の厚み、多様性、洗練度、その他さまざまな要素が、夏石氏の内面と深く親和しているのだろうと推察するのである。私などはこれまで、海外の俳句というと、すぐに英語で書かれたものを思い浮かべていたけれど、真にすぐれた世界俳句は、英語のみならず、ヨーロッパの諸言語によっても生み出されてくる可能性が高いということなのであろう。そうした事情もあってだろうと思うが、やはりヨーロッパでの夏石氏の俳句には、豊かなイマジネーションと理性的な言語操作が見事に調和し、ある種の「品格」を備えたものとなっている。以前のような過激とも言える言語実験や挑発的な文体(これはこれで、十分に魅力的だったけれど)は影をひそめ、俳句のあるべき姿、すなわち真正の俳句として、そこに立っているという感じがする。これが日本以外の国々で生み出されたことに、私も含めた日本の俳人はもっと衝撃を受けなければならないし、恥じ入らなければならないだろう。

先ほど、『地球巡礼』の作品群に浮ついた物見遊山的な雰囲気は皆無であり、何故そのように断言できるのか、のちほど説明すると書いておいたが、それに対する私なりの答えが、この「品格」ということになるかと思う。つまり、真正の俳句としての品格を獲得するには、浮ついた物見遊山的な気分では不可能だということが言いたいのである。実に単純な論理で汗顔の至りだけれど、

 

その海外体験の際に、フランス、ドイツ、イタリア、イギリス、アメリカなどの各国のHAIJIN諸氏とも実際に意見交換を重ね、俳句や日本語以外のHAIKUについて根本から考え直した。

むろん、俳句創作欲にも強く駆られた。

 

という本書「あとがき」の一文などを見るにつけ、「世界俳句」は揺籃期をとうの昔に終え、『地球巡礼』の作品群が書かれた時期には、すでに成熟期に入っていたということがうかがえる。その意味で、本書は「世界俳句」の記念碑的な句集としての存在意義も大きいと言えるだろうし、成熟期の世界俳句におけるすぐれた成果として示されるべきものは、やはり品格を備えた作品でなければならないとも思うのである。

 

雨の一月カルタゴの丘には雌牛

 

すべてを忘れポプラ大樹は黄葉す

 

イタリアの大麦秋を蛇行せり

 

日曜のミラボー橋を羽毛飛ぶ

 

アルルは夢の化石よ北より来てみれば

 

あいまいな地中海へとミモザの火の手

 

龍が沈んだ大西洋の秋暑し

 

北からの暖かき潮そして僧侶

 

子は眠り流星豊かなブルターニュ

 

はりえにしだの黒い実われも荒波か

 

私自身は、これらの作品に世界俳句としての品格を見る。日本のような狭く息苦しい場所では到底詠み得ないであろう深い呼吸、そして、厚みのある歴史や気品ある文化の匂いを感じる。それぞれの土地に一度も足を運んだことのない私にも、私なりにそれが分かることがうれしい。そうしたうれしさをもたらしてくれるからこそ、私は夏石氏を尊敬し、また憧憬するのである。
くり返しになるが、このことをもう一度書き記し、拙文の結びとしたい。

 

                初出「吟遊」第33号、2007年1月20日発行、吟遊社

鎌倉佐弓作品における起承転結と対句について

Hideki ISHIKURA

石倉 秀樹

ひとりの俳人のあまたの句は、渦巻き星雲の星々のようであるだろう。核心に濃密に迫る星々と縁辺に散在する疎星。わたしがここに挙げる数句は、縁辺の疎星で、鎌倉佐弓さんの俳句の宇宙にあってはきっと、その中心にあるものではないかもしれない。しかし、「吟遊27号」のために詠まれた次の句は、わたしの度肝を抜いた。

猫を屋根に月をひがしに我が夫  佐弓

この句を読んでああ蕪村だと思う人は少なくないだろう。

なの花や月は東に日は西に    蕪村

そして、鎌倉さんの句と蕪村の句とどちらがよいかと質問すれば、蕪村だと答える人もいるだろう。パロディーがオリジナルを凌ぐことは難しい。パロディーは、どうでもよい作をパロってみても意味がなく、人口に膾炙するほどの作を下敷きにする必要がある。そして、想像力に余裕のない読者は、パロディーだと気が付いた瞬間に、オリジナルに心を奪われてしまう。パロディーは美人の顔に投げつけられたトマトである。多くの読者は、そのトマトの色鮮やかな紅に心を惹かれるよりも、それによって汚された美貌を惜しむ。

しかし、ここで重要なのは、「猫を屋根に」を「なの花」の単なるパロディーと片付けてよいかどうかということだ。蕪村の「月は東に日は西に」は見事に対句である。ただし、漢詩では、このような型どおりの対が、型に嵌まって平板になってしまう場合は、合掌対と呼んで珍重されない。一方、鎌倉作品の「猫を屋根に月をひがしに」は、対応が緩い対句的表現。漢詩では、このような対はうまくいけば詩的効果が高いものとなり、その場合は絶妙のものとされる。
この二句、ともに「月が東」の空にあるということと、俳句ではあまり用いられることがない対句表現が句の景となっていることが共通している。そこで、後から詠まれた鎌倉作をパロディーだと思ってしまうのだが、この二句には無視しえない違いがある。蕪村作では「菜の花」が、日や月とともに、眼前の風景という同じ次元のなかで溶け合っている。これに対し、鎌倉作では、屋根の猫と東天の月は同じ景のなかに想像できるが、「わが夫」は、どこで何をしているのかということが伏せられており、わからない。そして、この違いによって二句がどう違うかということを、これらの句をもとに絶句を詠んでみることで、確かめることができた。鎌倉作は、

屋頂猫鳴懶,東天望月昇。夫君何處醉,昨夜等三更。

屋上でものうげに猫が鳴き、東の空には満月が昇る。夫はどこで酔っているのだろう。昨夜は真夜中まで待った、という詩になった。夫がどこで何をしているかということと、夫の帰りを待つわたしが何を想っているかは、原作には詠まれていない。そこは絶句に仕立て直すためにわたしが補ったことだ。原作は、「猫は」ではなく「猫を」といい、「月は」ではなく「月を」と言っている。だから、「我が夫」は、「猫」と「月」を対象として何かをしているのであり、わたしが鎌倉さんのご主人を酒屋に送り込んだのは、原作に忠実な詩作りとはいえない。本来は、絵を描いているご主人あたりを絶句に詠み込むべきである。しかし、いずれにしても、ご主人が何をしているのかは、読者の想像に任されているのである。俳句は、「省略の文学」ということが説かれるが、絶句にしてみるとそれがよくわかる。鎌倉作では、起承転結の転句の一部と結句の全部が削られ、省略されて、その部分を読者の想像力に委ねている。

屋頂懶猫鳴,東天望月昇。夫君○○○,○○○○。

一方、蕪村の作はどうか。

夕暮黄黄油采花,明月東天日西霞。

夕暮に黄黄たり菜の花、明月は東の空に日は西の霞に、という七言絶句の二句を作ることができた。しかし、蕪村の方はこれ以上に読者の想像力に働きかけるところがない。そこで、詩を作ろうにも、起承までは作ることができるが、転結が書けない。つまり、蕪村の作は、二句一章で終わってしまっている。転結は「省略」され、削られたのではなく、はじめから無い。
さて、「二句一章」という言葉は、もともとは漢詩作りの術語だが、俳句作りの術語としても大いに活用されている。しかし、その「章句」理解は、「や」「けり」などで切れば二句になるという安易なところに留まっているようだ。そして、「二句一章」とすればそれで一篇の詩。だから、「俳句は世界最短の詩」というようなことが説かれる。しかし、漢詩では、起承二句一章と転結二句一章の「二章一篇」で初めて詩であり、絶句である。
そこで、漢詩人のわたしは、起承を詠み、転結にまで踏み込んでいる鎌倉作品は、読者の想像力を鮮明に生かすという俳句の長所を生かしつつ、詩と呼べるものとなっていることに瞠目する。端的にいえば、蕪村の作品を凌いで、詩であるのだ。
蕪村は、自身が佳作と思うものには朱の合点を残したが、「なの花」は無印。蕪村自身も、「なの花」に何が不足しているかをよく承知していたのだろう。
ついでにいえば蕪村には俳詩があり、それらの作品は日本の近代詩・現代詩の魁とされている。しかし、その俳詩のなかの五言絶句の部分を見れば、蕪村には平仄の知識がまるでなかったことが明らかである。芭蕉にしても蕪村にしても、なかば神格化された俳人は、その作品の欠陥が指摘されることはあまりない。神格化され、その欠陥が指摘されることがなくなった作品は、もはや文学の対象とはなりえない。だから、あえて蕪村の漢詩理解に触れておく。
また、漢詩との比較で見れば、二句一章をもって詩とするためには、起承にしかならない二句を一章としてはならないと思う。起と転、承と転、起と結あるいは承と結とすることが求められているのではないのか。これによって初めて起か承を削り、転か結を削ることになり、省略の文学、詩としての俳句となるのではないか。そこで、俳句を詩とするための術語としては、二句一章ではなく、一句二章といったほうがよいと思う。鎌倉作では、「猫を屋根に月をひがしに」が一章、「我が夫」が一章。

「猫は屋根に」にしても「なの花」にしても、漢詩の本領ともいえる「対句」が俳句に取り入れられているのだが、鎌倉作品に、次の句もある。

我は汝を想う星は星をおもうや

漢詩を書くわたしには、対句表現をめぐってあれこれ思いがめぐる句だ。この句は、AはBに対してXである、CはCに対してXであるか、という構造になっている。これに対し漢詩の対句は、AはBに対してXである、CはDに対してYである、と詠む。簡略化すれば、AはBに、CはDに、というのが対句。そこで、漢詩風の対句で詠めば、

我は汝を想う月は星をおもうや

となる。しかし、鎌倉作品のミソは、AにB、CにDではなくCにCであり、そのことで、単純な対句が多元化される面白い効果が生まれている。
CとCであるから、AとBは、A=E B=Eということを踏まえていることが暗示される。つまり、星と星との関係が、我と汝の関係に照応し、我と汝は、人と人、ということになる。
また、AとBであるから、CとCにもC=A C=Bという関係が暗示される。星である我と星である汝。どちらの星が我で、どちらが汝かはわからない。ただ、我・汝・星がたがいに照らしあうということが起こり、我は汝ではない、星ではない。ということで、星は汝である、ということになる。

我は汝を想う汝は我をおもうや

このようにして、我と星との距離と、我と汝の距離が符合する、ということにもなっているのである。つまりこの句では、論理が鏡のように機能していて、上述の関係以外のことにも、あれこれが暗示されている。そこで、C=Cは、対句としては破格だが、かえって巧妙に仕掛けられた対句、ということになる。
また、さらには、鎌倉作品を挙げれば

永遠が見えそう枯木立ゆけば     鎌倉佐弓
未来より滝を吹き割る風来る      夏石番矢

この二句は、対句のように響きあっている。
未来に対して永遠、全部である永遠とその一部である未来。
滝に対して枯木立、また夏と冬。
向こうから来る風に対し、こちらから行く人。

江戸・明治の俳諧・俳句が漢詩から多くの滋養を吸収してきたとしても、俳句には俳句として発展してきた部分が少なからずある。そこで、漢詩の尺度のみで俳句を評価することにはおのずから限界があるし、鎌倉作品の多くの佳作にしても、漢詩に仕立て直せば、起句だけとしかならない作品も少なくないのかも知れない。むしろ、鎌倉俳句の銀河の核心を占める多くの星々は、そういう作であるかも知れない。起句だけでも、読者の想像力がそこで停止してしまわない句は、立派に詩であることを忘れてはならない。読者の想像力がさらに動けば、承転結を、読者が補うことができるからだ。そこで、余談だが、

城は春 国破れても山河あり

杜甫の五言律詩「春望」をもとに定型で詠んだ拙作である。これを漢語に翻訳し直せば、七言詩の一句になる。

城春国破山河在

さらに、この句を二句一章に展開すれば、

国破山河在,城春草木深。
国破れて山河あり、城春にして草木深し

ここで思うのに、もし杜甫が「城春国破山河在」とだけ詠んで筆を置いたとすれば、世界で最初の俳人になれたのではないか。蕪村の句は、起承の二句一章で終わってしまっているが、それでも俳句として受け容れられているのであれば、二句一章の「城は春 国は破れて山河あり」もまた俳句。しかし、そこで終えることができなかった杜甫は、さらに六句を書き足して四章の律詩とし、世界初の俳人となる機会を失った。