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『世界俳句 第2号』―書評兼論考

■書評 Book Review
『世界俳句2006 第2号』――書評兼論考
『世界俳句2006 第2号』夏石番矢・世界俳句協会編、七月堂

(当アンソロジーの購入については、http://www.worldhaiku.net/news_files/wh2006/wh2006japan.htm参照)

グラント・コールドウェル(オーストラリア)
和訳 湊  圭史

『世界俳句2006 第2号』の書評を書かないかと夏石番矢からお誘いをもらう前からすでに、このアンソロジーに収められた夏石とエドヴィン・スガーレフ、秋尾敏の論考への応答となる一文を書き始めていた。よって、この書評はそれと、アンソロジー全体の評を合わせたものとしたい。

内容へと進む前にまず、このアンソロジーについて印象的な点を伝えておこう。そこには、日本語の他、様々な言語で書かれた作品を多数含む、27ヶ国158人による472句がほぼすべて、英訳つきで収録されている。さらに、10ヶ国11人による11枚の俳画、東西からの5人の俳人・詩人による5つの批評文あるいは論考を読むことができる。国名をあげるならば、ナイジェリアからブルガリア、ネパール、アイルランド、クロアチア、スウェーデン、セルビア・モンテネグロ、さらにドイツ、アイスランド、デンマーク、ロシア、イタリア、オーストラリア、ニュージーランド、また、アメリカ、マケドニア、フランス、イギリス、ポルトガル、スロヴェニア、ベルギー、ルーマニア、ギリシャ、インド、そしてもちろん日本からの、29歳から81歳(ジュニア俳句コンテストを除く)にわたる幅ひろい年齢層の人々が集っている。

秋尾敏の「滑稽とユーモア」、エドヴィン・スガーレフの「ブルガリア俳句」、夏石番矢の「俳句をとおして本当に東洋と西洋は出会ったか?」の3つの論考では、各著者の見解がある点においては矛盾しあい、別の点では同意に至っているようだ。ここでは、それぞれの論のキーポイントだと私が思うところを取り上げながら、諸氏の見解を何とか整理してみようと思う。私が指摘したいポイントは、秋尾による俳句の起源について考察、スガーレフの「禅的要素」についての省察、それに、夏石については2点、現代俳人の俳句理解が特に西洋において不十分であるとの見解と、翻訳の問題に関する考察である。これらのテーマは、現代俳句の、またおそらくは現代の詩総体が抱える問題の、その中核につながるものであると思われる。
エドヴィン・スガーレフは「俳句という言葉に関しては、私はいかなる定義も性格付けも、また俳句の書き方、従うべき原則の処方箋も信じていない・・・[それは]俳句のエネルギーと衝撃が捉えがたく、いかなる合理的な説明からもこぼれ落ち、抑え置くことができないから」(土谷直人訳、p. 91)だと記している。私はスガーレフがその論考で述べていることの大方に賛同するものである。だが一方で上の言葉は、まさに「捉えがたく、いかなる合理的な説明からもこぼれ落ち」てしまうものである点において、夏石番矢が現代に書かれる俳句の多くを批判する理由を示しているだろう。「俳句は、意味から逃れられはしない」(p. 106)という夏石の指摘はまっとうなものだ。私の見解では、禅と俳句がふたつながら誤解(また誤訳)されてきたことが、俳句についての誤まった考えを広める原因となっている。ほとんどの古典俳句は論理的分析が可能であるにもかかわらず、つたない翻訳によって、また俳句(そして禅あるいは道教‐仏教[1])そのものであるところの「見ること」の本質が真に理解されていないことによって、説明不能と思しき句となってしまっているのではないだろうか。論理的理解が容易な古典俳句の一例として、一茶による次の俳句を挙げておこう。
鳴ながら    insects on a branch
虫の流るる   floating downriver
浮木かな    still singing
現代の優れた俳句にも、この『世界俳句』アンソロジーが示しているように、論理的分析を許すものは多いのである。例えば、8ページのロバータ・ビーリーによる一句である。
待合室 waiting room –
前妻 the ex-wife
私を見透かす  looks past me
このアンソロジーにはまた、俳句を「捉えがたい」ものとする見解に基づいて書かれたように見える作品も掲載されている。しかし、すでに示唆したように、ここでも、翻訳の問題からそう見える場合と、読者の洞察を真に求めるものである場合、その双方が考えられる。28ページのA・A・マーコフによる俳句は、一読では論理的解説を拒んでいるが、最初は(少なくとも私にとっては)漠として感じられた何かを、響かせ、捉えることに成功している。
盲人が          a blind man
こわれた壁を通っていく  passing a broken wall
夕暮れ          at dusk
丁寧に読むならば、この句が同情的あるいは哀しげなアイロニーの要素(寂[2]だろうか)をもつことが分かるだろう。さらに見えてくるのは、3つの別々の「物語」、3つの異なったレベルである。つまりこの句は、個人的で私的な要素(盲人)、全体的状況・背景(こわれた壁)、そして一時的かつ普遍的なもの・自然なもの(夕暮れ)を含みもっているのだ。個人的にも、集合心理的にも、これらのイメージから紡ぎだされる象徴的効果は多岐に渡るものだ。だが、ここにはそれ以上のものがある。この見かけではただうら哀しいだけの一日の終わり(夕暮れ)に、盲人が見ることができない(がたぶん触れること、感じることはできるだろう)こわれた壁(侵食/破壊/混沌/戦争)を通っていくワンシーンには、これら複数のレベルの結合によってのみ達成される何か、神秘的で無時間的で精神を高めるような何ものかがある。ここには、理性的に俳句の魔法が解明されうる一例と、そこにイメージが生み出す言い表しがたい余剰というものが、<部分の集合は全体を超える>という(たぶん引用されすぎた)原理のかたちで明示されている。作者A・A・マーコフはこの句を書くときに、それがもつ意味の多数性を意識しただろうか? あるいはそうした多数性は、単にそこに表れたイメージによって捉えられたに過ぎないのか? 私の推測では、始めにはイメージが意味を捉えたのであって、しかしそのあとでどうしてそうなったのかを、意味のほうが見出したのだ。であるから、ここには2つの視座が関わっている。ひとつは「創造的」視座であり、これは夕暮れのこわれた壁のもつ意味には「盲目」であるかも知れない。もうひとつは分析的視座である。こちらは、イメージがはらむ多数の含意を認識する時間と客観性をもっている。こういっても、「創造的」視座だけで十分、伝達される感情だけで十分ではないか、という読者がいることだろう。しかし、そうした伝達が起こりうるためにはやはり論理、もしくは「意味」が必要なのだ。
スガーレフと原理の問題に戻ろう。ひとつの規則というものがありうるとすれば、俳句とは「意義をもつ瞬間」、象徴・比喩・類推を通して単一の意味やイメージ以上のものを捉える瞬間に関わるものだということであろう。だからこそ、最初は謎めいていたり、過度にシンプルに見えたりするイメージやイメージ間の独特の結合が、くわしい観察によって、多数の意味や連関、認識に通じてゆくということが起こりうるのだ。しかしこのこと、また他の「規則」や「自然」がもつ深さの指摘は(驚くべきことではないが)、芭蕉その人によって遥かに明瞭に示されている。アメリカ詩人ロバート・ハスが著書『必須の俳句(芭蕉・蕪村・一茶の翻訳) The Essential Haiku (Versions of Basho, Buson and Issa)』で述べているように、「芭蕉自身は詩学について体系的論文を書くことはなかったし、彼の考え方は時期によって変化している」(Hass, p. 294)。しかしながら、ハスは芭蕉による詩・詩学に関する所見の非常に有益なリストを、芭蕉自身の散文や、弟子たち―そして多くの翻訳者たち―が伝えた言葉など、様々な文献から編んでくれている。このリストの脚注でハスは、「芭蕉の発言として伝えられる言葉のすべてが彼のものであるかどうかは完全には明らかではない」と付け加えているが、このリストに収められた発言のほとんどが啓発的・刺激的なので、私自身これをひとに薦めるのに躊躇しない。ハスはこれに「松に習え」と題して、彼の本の233‐238ページに収めている。ここでもっとも関連の深い「規則」は、2番目に挙げられた「故人の跡を求めず、求めたるところを求めよ」である。リストの残りの項目は「求めたるところ」についてのものである。
エドヴィン・スガーレフは「松に習え」の第一に挙げられた(おそらく最もよく引かれる)金言を、俳句と禅の関連を説明する際に用いている。「俳句は書かれたり創造されたりするものでは無くて――俳句は単にそこに存在するもの、野原に隠れた一輪の花のようなものです。・・・客体を観察している主体の位置、見地から俳句を詠むことは出来ません――自分自身から抜け出して過去と現在を超越し、今ここに凝集し、ひとつにならなければならないのです。その意味で俳句は瞑想芸術であり、この点に、禅との深い(しばしば否定的な)関係が有るのです。芭蕉が「松を読まんと欲すれば、松となるべし」と言うとき、詩的テクニック以上のことを言っているのです。それは非二重性、禅の基本である、宇宙へと溶解するおのれ自身の原理を表現しているのです」(土谷訳、p.91)。ここが私の見るところ、スガーレフの論の要点であり、これはまさにブライスが誤解してしまったらしい、夏石がそれを94ページにおいて批判している、「無私」(独立/単一であること?)のことなのである。スガーレフは西洋の詩においては、「言語の奴隷化」が「積み込み[重荷]や制限」として感じられていることを嘆きさえする(スガーレフ、p.91)。なるほど、私も西洋哲学の貧困(そこで支配的な物質主義文化)に、この欲求不満と限界が反映されているのを感じる。おそらく、この「積み込み[重荷]」こそが、世界中のこれほど多くの詩人たちが俳句に惹かれる理由なのだ。なぜなら、彼らの興味の基礎にあるのは俳句の本質にそった俳句そのものではなく、禅のもつ「実存コード」(スガーレフ、p.91)なのだから。真に俳句を理解しようとするならば、私たちは禅とは何か、道教/仏教とは何か、その「実存コード」を理解しなければならない。いや、より正確を期して言えば、理解しなければならないのは、最も広い意味において「自然」とは何かということである。夏石が論考で正しく指摘しているのは、数多くのつたない翻訳にそうした翻訳(さらにオリジナルの日本語・中国語テクスト)のつたない解釈が重なることで、正しい理解のための光をあてるのと同じぐらい、東洋哲学(と俳句)を見えにくくしてしまっているという事実だ。ここで、とても基本的な区別ではあるが、包摂し、支配し、操作する気質をもつ西洋的気風と、自然と協力、協働し、ともに流れていくような、かつての東洋的(また他の古い文化にも共通の)気風を分けてみるべきだろう。これがおそらくは、俳句(あるいはその先駆の連歌)が始めに、季語・季題、つまりは自然に対しての言及を必要とした理由であろう。しかしもちろん「自然」とは単に自然界をのみを指すのではなく、私たち人類も、たとえ都会的人類であっても自然の一部なのである。このことは、私たちが「進歩」によってどれほど自然を悪化させ、どれぐらい消滅させてきたかに関わらずそうなのである。アメリカ抽象表現主義の著名な画家ジャクソン・ポロックが、「私は自然を描かない、私が自然なのだ」と喝破したように。

道教の学者のふりをする気は毛頭ないが、私は老子や荘子を多くの翻訳テクストで長年研究してきた人間である。そして翻訳の読みを通じて東洋思想を説明しようと試みるまたひとりの西洋人になる危険を冒してでも、道教の思想は(そして同じことは仏教や俳句にも言えるのだが)、道教のみに、また特定のひとつの文化に限定して帰属するのではないはずだ、それは世界の法を「体感することseeing」であると信じているので、よって、ここで簡潔に道教思想が何であると私が考えているかを論じることを試みようと思う。そうすることで、私が思うところにおいて、俳句とは何に関するものであるのかという問いにアプローチしてみたい。だがおそらくその前に、さらなる「但し書き」として、『道徳経』から二つの節を引いておいたほうがよいだろう。最初は、第56章の始めの部分である。
知るものは    Those who know
話さず、     do not speak;
話すものは    those who speak
知らず。     do not know.
(知者不言、言者不知。)
二番目は、第1章の冒頭である。
名づけうる道は                 The way that can be named
不変の道ではない、               is not the constant way;
名づけうる名は                 The name that can be named
不変の名ではない、               is not the constant name.
名のなきものが天地の源であった、        The nameless was the origin of heaven and earth;
名づけられたものが万物の母であった。      the named was the mother of the ten thousand things[3] (道可道非常道。名可名非常名。無名天地之始。有名萬物之母。)
すでに指摘したように、禅あるいは禅仏教は、本質的には、道教(タオイズム)と仏教の出会いから生み出されたと言えるが、私にとっては道教の原理は、俳句の本質に最も明瞭に感じとることができる。「芭蕉が中国の詩に惹かれたのには、主に二つの理由があるようだ。ひとつは老荘思想への興味であり、芭蕉はそれを日常生活の混乱から、真の自己を取り戻すことができるであろう自然の世界へと、彼を導き出してくれるものと考えた。彼は『荘子』[4]の熱心な読者となった。・・・中国の詩が芭蕉を惹きつけたもうひとつの理由は、禅仏教である」(Ueda, p. 67)。西洋は<唯一>のアプローチを決定する欲求に縛られ、「重荷を背負わされ」て、ロマン主義者の主観と形式主義者の客観から、理論と実践だとか知性と感情だとか、主義宗派ごとに名前が変わるだけの相も変わらぬ対立軸をもって揺れ続けてきた。これは私が思うところでは、すべてを科学的用語で割り切ってしまおう、すべてを分解して説明しよう、<くっきりと永遠に定義づけ>てしまおう、という欲求からきている。しかも私たち、とりわけ芸術家が定義づけ不可であると知っている、そして、そもそもそれが私たちが芸術家になる理由であるような事柄においてさえ、万事そうなのである。一方で、詩人たちは「非科学的に」、言い換えれば創造的に、実験を重ねつつ前進してきた。タオ(道)また禅は、すべての事物がその「相補的反対物」とともにあることを、また私たちの議論にそって言えば、芭蕉が彼の評釈で述べたように、主観的なもの<と>客観的なものの一体性を認識するのである。タオの知恵は、自然を観察することで道を学んだ「先人たち」に由来するもので、その歴史は老子や荘子が「(実存)コード」の解釈や見解を記すよりも、遥か以前から続いてきたものである。
秋尾敏は俳句と中国の関わりについて、次のように言及している。「十四世紀ごろまで、日本では、詩を作るのに二つの方法がありました。ひとつは中国の詩を作ること。もうひとつは日本古来の「和歌」と呼ばれる詩を作ることでした。・・・しかし、中世に和歌から派生した「俳諧」は、それまで和歌には用いられなかった、中国の語彙や、身の回りの俗語を使ったのです。・・・それ(俳句の創始)は形式化した正当性をを逸脱した、自由な表現によって真実をとらえようとする潮流のスタートでした」(秋尾、p. 83-4)。
夏石番矢の主要論点は、a) 西洋の俳人たちによる日本語の習得、b) 禅仏教と俳句の混同、c) 翻訳の問題の3つである。b) についてはすでに十分に述べたと思うので、ここからはお互い密接に関連した a) と c) のポイントを同時に取り上げてみようと思う。
西洋人が日本語俳句を真に理解しようと望むなら日本語を学ぶべきだ、という点については、夏石にまったく同意したい。私たちの言語を学ぶ努力を行ってきた番矢のような人々に出会い、翻って私自身はその努力をしてこなかったのに気づくと、私の心は賞賛と罪の意識でいっぱいになってしまう。私の自己弁護は、世界の支配的言語(もっとも多い人数が話すという意味では中国語だがそれはひとまずおいて)に私が生まれおちたということ、他文化に生きる多くの人々が英語を学ぶのを求められるような仕方で他言語を学ぶ必要が、この5年か10年前まではまったくなかったということ以外にない。これが排外的立場であることに異論はないが、一面これは実際的条件でもある。もし私が日本語を学ばなければならないとしたら、同様に、オーストラリア原住民の(数え切れないタイプが存在する)言葉も、ゲール語、中国語、スペイン語、ドイツ語、インドネシア語、ポルトガル語、ロシア語、なども学ばなければならないだろう。
それに私は、詩・俳句・小説、研究調査、教育と仕事に時間を取られつつ、英語を学ぶことも続けている。おそらくこれらのうち一つでも減ることがあったなら、中国語あるいは日本語を学ぶことを考慮に入れることができるかもしれない。こう言いつつ私が感じるのは、実は、問題は言語にではなく、1)俳句の本質の理解(あるいは詩の本質の理解であるかもしれない――思うに、ブライスも鈴木大拙もバルトも詩人ではなかったのだから)、それに、2)俳句作品の翻訳、にあるのだという気がしてくる。日本語の習得ですべて解決するわけではないことは、ブライスそのひとの例を見ても明らかだ。ブライスは28歳から日本文化に浸りきり、日本語を学び、何人もの師について禅を研究し、39歳で日本人女性と結婚、日本の高校で教鞭を取っていた。彼は66歳で死ぬまで日本に住み、学び、翻訳し、教えつづけたのである。にもかかわらず、夏石が引くように、ブライスの芭蕉翻訳の試みは、それに他の翻訳にしても、俳句さらには禅に関する彼の理解が心もとないものであったことを示しているようだ。なぜそうなったのかを理解することは、彼に「詩的聴覚」が欠けていたことと、禅あるいは道教の本質に真の意味で親しむことができなかったからだと考える他ない。私は夏石とは違い、鈴木大拙の仏教についての論考を少し込み入りすぎてはいるものの、たいへん説得力があり、しっかりと表現されたものだと思っている。また、夏石が鈴木の判断に「欠けて」いたものとして挙げている「アニミズム的」要素は、道教の伝統にも含まれているもので、それが俳句を仏教よりも深く、禅の真の起源に近しいものにしていると考えている。しかしむろんこれらすべては、俳句とは何か、詩とは何かという問いに呪いのように付きまとう、イズム、コード、原理の解釈の問題ではある。道教の始祖のひとりである荘子が、「通常ひとはあらゆることについてお互いを説き伏せようと議論を繰り返すが、賢人はすべてを受け入れる」と述べているのを思い起こさせられる。
興味深いのは、ロバート・ハスもまた、夏石が考察に取り上げている「霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき」の句について、長い解説を試みていることだ。ハス自身の英訳は次のようなものである。
Misty rain,
can’t see Fuji
-interesting!
この翻訳はブライスの試みを進展させたにも関わらず、原句を「捉える」ことに失敗しているように思われる。ハスは本の後ろの注釈で長々とこの句の言葉を点検し、その最後で、「この(日本語で行われた)美学的な様式化は、かつて春雨や霧時雨や夕立が自然の神霊、はっきりとした存在として考えられていた頃の、アニミズムの名残を留めている」(Hass, p. 255)と述べている。上田真も同じ句を、芭蕉のオリジナルについた前書も含めて英訳している。くわえて、この句を「解釈する」のに役立つものとして、18‐19世紀の俳人・学者の評釈を引いている。そのうちの一人の学者トウカイ・ドント(Tokai Donto)訳注は、14世紀の学者である吉田兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」 (Ueda, p.102)という意見を引用で示している。上田の
in the misty rain
Mount Fuji is veiled all day –
how intriguing!
という翻訳も私を満足させるものではない。が、この句の真の理解を進めるうえでも、上田のこの論考全体を読むことをお薦めしたい。
1996年に私は、コロンビアのメデリンへ、国際詩歌祭に参加するために旅行をした。70年代にスペインとモロッコで過ごしたことがあり少しはスペイン語を習っていたので、到着してみてスペイン語での非常に基礎的なレベルでの理解とコミュニケーションは可能だった。それでも言葉の通じない国にいるほとんどの間、あの「耳も聞こえず喋れもせず」の感覚を経験することになった。幸運にも英国人女性のクレア・パイが私の詩をスペイン語に翻訳するのに同意してくれた。地元の人々の反応や英語も話す参加者たちの意見によれば、彼女の翻訳はとても優れていたことは間違いない。もしかすると、元の私の詩よりもよかったかも知れない! 名前は挙げないが私の友人であり同僚である詩人は、これとは全く正反対の経験をした。まともな英語を喋る地元のスペイン語話者に、彼の詩を英語からスペイン語に翻訳してもらったそうだ。友人が言うには、スペイン語を話す人たちの反応とコメントからして、その翻訳がまったく不適切なものであったのは明らかだった。こうした経験とこのテーマについて書かれたものから、私は翻訳についてのいくつかの主要な原理を導き出してみた。a) 翻訳を行おうとする人物は詩的聴覚をもっていなければならない、b) この人物はオリジナルの言語のネイティヴ・スピーカーであり、対象言語も流暢にとまでは行かなくともそこそこは話せる必要がある(クレア・パイはスペイン語を流暢に話し、地域の学校で英語教師をしていた)、c) 翻訳者は「第二言語」のネイティヴ・スピーカーを最低限一人、相談役として確保しておくべきである(クレア・パイはもちろん彼女が使うスペイン語についてアドバイスを求めることができる地域の人々をたくさん知っていた)。というわけで、例えばドイツ語に芭蕉の俳句を翻訳しようとするならば、理想的には、流暢ではなくともそこそこのドイツ語を操ることができ、相談することができるドイツ語ネイティヴの話者にアクセスできるような日本語話者が必要である。これが満たされれば、もしかすると富士山の句も「完璧に」翻訳できるかもしれない。
『世界俳句2006』には多くの優れた俳句が収められており、芭蕉、蕪村、一茶らが捉えたものを同じく捉えることに成功している。それは彼ら以降の多くの俳人が、彼らの詩の本質において、発展・前進させたかたちで生み出し続けてきたものであり、ほとんど常に言い表しがたい精妙な表現で、存在や存在のもつ連関、また驚異などを暗示することで成し遂げられてきたものである。ここに収められた俳句は、私を刺激しインスピレーションを与えてくれた。それらは、良質の論考や俳画を別にしたとしても、この俳句集を手に取る価値の高いものとしている。また、私が「理解する」ことに困難を覚えた句や、単に含蓄が少なく明瞭に過ぎる句も多く見うけられた。すでに示唆しておいたように、これらの句の問題はもしかすると翻訳にあるのかも知れない。あるいは、句のもつ文化的背景やニュアンスを私が理解できていないということもありうる。後者は翻訳に常につきまとう困難であるが、すべての文学について言えるのと同じく、とりわけ十分な数の読み手が十分なコメントを行うとすれば、最良の詩句が生き延びるのを不可能にするものではないだろう。私個人にとくに響いてきた句を引いてみてみよう。
ロバータ・ビーリー (p. 8)。3句すべてが興味を掻き立ててくれた。珍しく家庭的な質をもっており、ユーモラスなほのめかしにも満ちている。
待合室 waiting room –
前妻 the ex-wife
私を見透かす  looks past me
特にこの二番目の句は、嫉妬、困惑、プライド(?)といった人間的「本性=自然」を強く暗示していて好ましい。なぜ彼らは「待合室」にいるのか? 病院の待合室だろうか? 妊娠していたり、病気だったりするのか? 連想される事柄は数多く、興味をかき立てられる。だが、私たちは状況のすべてを知る必要はないのであって、面白さは、一瞬に起こった交流(あるいは交流のなさ)とその含蓄なのだ。
ジョネット・ダウニングの3句も楽しめた。特に次の句、
木に彫られた  a heart
ハートに    carved in a tree
ひびがある   has a crack in it
句の含意は明瞭であるが、作者が自然な形で認識した「偶然の」アイロニーは味わい深いものだ。3行目で、詩人と読者にとって、ユーモラスな皮肉を含んだ物語へと「飛躍」してくれる。
ジル・ファーブル――3句ともに良句で、中でも2句目、
この友                     This friend,
知っていると思っていたが、彼の車のトランクに  I thought I knew, in his car boot:
猟銃                      a hunting gun
ここでも、3行目への「飛躍」が幻滅をはっきり示唆することで、1行目の「この友」という設定と対照をなしている。「彼の車のトランクに」何が入っていたかが焦点となるのだ。友人が銃を、彼(彼女、でもいいかも知れない!)の車のトランクに入れ携帯していることの意味は、単にうす気味悪いということだけでなく、作者が発見してしまった友人の隠れた性質、その秘密性を強めるところにある。
カイ・ファルクマン(p.15)では、特に最初の句が面白い。他のふたつの句はアイデアは良いが、私の見るところそれが十分に生かされていない。
アレクサンドラ・イヴォイロヴァ(p. 21) ――
朝         Morning
外で犬が吠え    the dog’s bark outside
雪の匂い      smells of snow
明確な季語をもった句である。ここで、「匂い」イコール犬の吠え声でないことは明らかだ。吠え声は降ったばかりの、おそらくはその年の最初の雪から響いてくるように聴こえているのだが、同時に、作者は雪の匂いをまさに感じている――であるから、私たちもまたその匂いを感じ、犬の「雪のような」吠え声を聴く――私たちも「そこ」にいて、この状況を感じとるのである。もしかすると、私が摂氏35度のメルボルンで読んでいるせいで、いっそうこの句に共鳴できているのかも知れない!
エカテリーナ・クノヴァの3句(p. 27)はとても良いが、中でも
日暮れ時       Sunset –
私のおばあちゃんの  my grandma’s
さくらんぼジャム   cherry jam
おばあちゃんの人生の日暮れ時、私たちが夕陽の中で彼女と並べて眺めるさくらんぼジャムの色、そうした照応によって示される寂、ふたりの女性のあいだに通う慈愛や家庭の温かさ、家族としての感情が強く伝わってくる――私たちもこのジャムを食べたような気さえしてくる。
ルミャーナ・リャコヴァ(p. 27)――
雪が静かに       The snow quiet
鹿の足跡へと      In a deer’s footprints –
日の出         Sunrise
この句では、雪の静けさ、降雪時のあの孤立したような感覚、雪の(静寂の)なかで独りっきりでいることからくる寂、それに作者が立ち尽くしているという感じ、鹿の足跡の中にあるすべて、野生動物の存在が引き起こす驚異の念、鹿をびっくりさせないように静かにじっと立っている感覚。これらが3行目の夜明けの静けさ、落ちつき、爽やかさによって強められる。これらすべてを私たちは詩人の中に立って感じる。これらすべて、静けさ、雪、鹿、日の出が、この瞬間の詩人そのものだと感じるのだ。
次に引きたいと私が思うのは、ニコラ・マジーロフ(p. 28)、ティミャナ・マヘチッチ(p. 28)、ドゥシュコ・マタス (p. 29)による俳句である。これらについても、それぞれの句がもつ共鳴作用を考察することが可能である。
朝霜           Morning frost.
車に誰かが        Upon the car somebody
太陽を描いた       has drawn a sun

草のうえ         Boys run after a ball
少年らがボールを追う   on the grass –
老人はほほえみ      an old man smiling

曇った窓ガラス      Misty window pane
溝から聴こえてくる    I hear them on the gutter –
雨音           the raindrops
イヴァン・ナディロの句 (p. 33)
墓地で          At the cemetery
輝く黒大理石に      I’m mirrored in the shine
私は映る         of black marble
は、英訳では次のようにするとより効果的ではないかと思う。
At the cemetery
my reflection
in the black marble
言葉の簡潔さ・正確さのためだけではなく、“reflection”(反映‐内省)の語がもつ二重の意味のために。そうすれば、“mirrored” を使うよりも痛切さが増すからだ。
ボリス・ナザンスキーの好句 (p.35)、
今夜           tonight
蝸牛のあとをたどり    following the snail’s tracks
星々垣根を昇る      the stars are climbing the fence
は言葉が多過ぎると感じるので、衒学的になるかも知れないが次のようにしてはどうだろうか。
tonight
following snail tracks
stars climb the fence
このアンソロジーの中でも、ジュルジャ・ヴケリッチ=ロジッチの俳句(p. 53)は私のお気に入りである。
人形とテディーベアー   dolls and a teddy bear
歩道で待つ        on the sidewalk waiting
ゴミ回収車        for the garbage truck
人形やテディベアーの感情を想像することからくる痛ましさがもっともはっきりと出ていて、哀しさが伝わってきて私たちの涙を誘うものの、この句にはどこか微笑ましいところがある。寂の感覚が、作者と人形とテディベアーを結びつけている。とくに、作者とテディベアーを。人形の数が指示されていないので、テディベアーが私たちの関心の中心を占めるからだ。その後で、「なぜこんなふうに捨てられてしまったのだろう?」という疑問が湧いてくる。持ち主に何かが起こった、そのことを反映しているのだと取るべきか? それに/あるいは、すべてが使い捨ての近代社会では、無垢と想像力溢れる愛情が失われてしまっていることを、この人形とぬいぐるみは象徴しているのだろうか? それに加えて、存在のはかなさ・無常が、テディーベアー(子供時代)においてでさえ、はっきり表れるのだということを示してもいる。
吉田季生の3番目の句(p. 56)もまた、等しく(同じようなかたちで)イメージを喚起してくれる。
蟻地獄          On the sand
砂から睨む        the ant-lion staring
大宇宙          at the universe
ジュニア俳句コンテストの受賞者の中では、第1位の崎野有紗の句が現実と象徴を結びつけていて、力強いものだった。11歳という年齢を考えれば、とても成熟した質の高さである。
引用できなかった中にも楽しむことのできた句は多かった。このアンソロジーを読み、収められた句や論考の評を書く作業は、とても楽しかった。これは私にとってやりがいのある仕事でたくさんのことを学ぶことができた。他の読者も同様にこの書を楽しんでいただきたいし、私の言葉がその呼び水になればと願っている。繰り返しにはなるが、このアンソロジーに収められた俳句の英語訳の中には、原句に忠実でないものが含まれている可能性も充分にある。この点については、私の言語的限界があったことをご容赦いただきたい。

2006年2月23日、メルボルン、オーストラリア

参考文献
Robert Hass The Essential Haiku (Versions of Basho, Buson and Issa), the Ecco Press, New Jersey, U.S.A., 1994.
Makoto Ueda Basho and His Interpreters, Stanford University Press, California, U.S.A., 1991.
夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句2006 第2号』七月堂:東京、2006.

訳注
上田真によれば、Tokai Donto は「(1704-?) 俳人、芭蕉の発句654句の注釈書『芭蕉句解』(1769)の著者。信濃地方に生まれ伊豆半島へ移ったこと以外はあまり知られていない」(Ueda , 28)。

[1] 禅は道教と仏教(と僅かではあるが儒教)が組み合わさった結果として生まれ、日本文化には禅仏教として12世紀頃から移入され、受け入れられた。
[2]芭蕉は寂(さびしさ)を俳諧に不可欠の要素として、「さびは句の色なり」と述べている。英語話者の観点からするとこのさびしさというのは興味深い言葉である。仏教や道教における「独立」や「超脱」といった原理と興味深い関連があり、英語の「独りalone」という言葉は「単一 all one」というフレーズに由来するからだ。
[3] これらは私が読み研究してきた多くの翻訳に基づいた私自身による訳である。
[4] 英語では道教、老子、荘子それぞれに、中国語を英国風にした幾つかの異なるスペルが当てられている。

夏石番矢句集『Metropolitique』論

About Ban’ya Natsuishi’s Haiku Collection “Metropolitique”

夏石番矢句集『Metropolitique』論

metropolitique

夏石番矢句集『Metropolitique』、牧羊社、東京、1985年7月25日刊
Ban’ya Natsuishi, Haiku Collection “Metropolitique”, Bokuyo-sha, Tokyo, July 1985.

Yoshitomo ABE

阿部 吉友

1 「夏石番矢」の登場

句集『Métropolitique』(以下『メトロポリティック』)を始め、夏石氏の三十代の頃の作品群が、私に与えた衝撃の大きさを思う。恐らくこの衝撃は、従来の「俳句」というものに慣れきった者たちに、そして「俳壇」に、等しく与えられた衝撃だっただろう。今回、『メトロポリティック』を論ずるにあたり、その衝撃の本質とは何だったのかを私なりに明らめたいと思った。

本書は、第一句集『猟常記』(昭和58年)に次ぐ第二句集である。昭和五七年から昭和六〇年の間に書いたⅠ六六句を収録した。時期的には第一句集の作品と重なるものもあるが、作品の性質上ここに集めた。また、昭和五八年より書き継いでいる昭和天皇の勅語をもどいた「未定勅語」は、単独で第三句集にするつもりである。
(『メトロポリティック』あとがき、以下「あとがき」)

まず私たちは、『猟常記』(1983年2月)と『メトロポリティック』(1985年7月)、『真空律』(1986年8八月、「未定勅語」が結実したもの)の三句集に収められている作品が、ほぼ同時期に書かれていることに注目しなければならない。同時期に、異なった文体で、異なったテーマで、異なった句風の作品を書き分け、句集に編んでいくというこの意識的な営為が、当時の読者を瞠目させたことは想像に難くない。『神々のフーガ』と『人体オペラ』の二句集に至ってはともに1990年6月の出版である(!)。テーマ別に句集を編纂するという手法は言うまでもなくその後も継続され、句集『地球巡礼』(1998年11月)にまで至るわけで、夏石氏の変化は自在で、留まることがない。
かつてこれほど明確に句集のテーマを限定し、個別に設定し続けた事例が、百年の俳句史上あったとすれば、夏石氏の師・高柳重信の名を挙げるに留まるだろうか。だが、夏石氏の登場が衝撃的だっただろうことには変わりない。それは、「新しい俳人」の登場とか、「新人」の登場とか、一時よく使われた「ニューウェーブ」の登場という表現などではふさわしくないのではないか、と私は思う。つまり、これは「夏石番矢」の登場だったと捉えるのが、最も適切な表現のような気がするのだ。私たちに与えられた衝撃の本質、それは「夏石番矢」という謎深い多面体のような文学者の登場に対するおののきだったと言うべきか。
そして、特に『メトロポリティック』には、『猟常記』とも『真空律』とも異質な、「現代」を生きる「夏石番矢」の姿を等身大に描く手法が意識的に取られているように思われる。それは、「あとがき」に見られるように、『métropolitique』と言うことばの来歴を語る中で、「metro―地下鉄」「politique―政治・政策」「métropole―メトロポリス」などのことばの数々を引いていることからも明らかなのではないか。また、『メトロポリティック』を構成する四つの章の内、その巻頭を飾る「唯名論のあさぼらけ」にはその「夏石番矢」の名が連呼される。「唯名論のあさぼらけ」という章、ひいては『メトロポリティック』という句集自体が、「夏石番矢」の登場を告げる、堂々たるマニフェストだったと言えよう。

2 「唯名論のあさぼらけ」

『猟常記』を通して遙かに望むことができる古代では、名を呼ぶことは禁忌だったが、『メトロポリティック』で描かれる現代では、名は、その存在を主張する重要なアイテムである。

夏石番矢の塒(ねぐら)は極彩色のそら
驟雨をまねく夏石番矢の飛行かな
夏石番矢を縛る薔薇色の地平線
満月や深窓に佇つ一天使

この章における「夏石番矢」は、さながら伝説の巨人であり、その実体は一天使でもある。極端に戯画化され、章全体に諧謔の味わいがある。しかし、「満月や」の句や、

夏石番矢と猫が塔から帰る朝

などに、私は、ペーソスを通り越して、夏石氏自身の孤独な姿を見る。

3 「新未来学」

「唯名論」、「新未来学」、「漆黒史」、「犠論」と、各章のタイトルは学術論文の体裁を取る。その意図は様々に解釈されよう。夏石氏自身が研究者であることにも起因していようが、私はここに、既成の俳句表現に浸りきり、安住しきっている一般読者への啓発(=挑発)を感じる。
挑発は「新未来学」の巻頭句より始まる。

未来より滝を吹き割る風来たる

言うまでもなく、夏石氏の代表作の一つである。虚子に「神にませばまこと美はし那智の滝」と、神として讃えられた滝を吹き割る、未来からの風。『現代俳句キーワード辞典』(1990年4月)に、夏石氏の自解がある。

「未来より」の「風」は、「滝を吹き割る」ほどの威力をそなえる。あたかも「未来」が現在の世界を作りなおす意志を、「風」であらわしたかのようだ。(傍線・筆者)

既成の価値観に安住し、固定した現在の世界。それを作りなおす意志を持つ「未来」。それこそ夏石氏が志向するものではなかったか。
さきほど、「夏石番矢」という謎深い多面体のような文学者、と記した。「夏石番矢」の断面は、当然一様ではない。私はこの句集の随所に、先述の諧謔と孤独、さらに若さゆえの自負、そして抒情を見る。
世間には思い込みがある。例えば、(近年の文学史ではだいぶ是正されてきたが)源実朝が遺し、理想として修練に励んだその和歌のほとんどが王朝風の作品であるにもかかわらず、その万葉調の作品のみに読者の目が注がれ、単純に「万葉調の歌人」と括られ、強調されてしまうことに、私は抵抗を覚えるのだが、同様に、夏石氏を難解・晦渋の牙城のようなイメージで、捉えすぎてはいまいか。以下のような作品に見られる良質な抒情を見逃してはなるまい。

てのひらがこひに星を飼ふなり海潮音
林檎一箇浮かべさまよふ水たまり
街への投網のやうな花火が返事です

また、以下の作品のように、ことば遊びやパロディなどの「俳」の要素も散見され、夏石氏の句作は縦横無尽だ。

金粉を着るLady Maidのクリスマス
雲は形代 翼よあれがバリの火だ
無花果や我はアルファにしてオメガ(聖書からの引用)
大鴉雲の浮橋とだえなむ(「新古今集」の定家詠を想起させる)
涅槃で待つトマトの腐爛と小指の飛翔(沖雅也の遺言か  らの引用)
Paraphysica かの掌上の萩と月(芭蕉句を想起させる)

この章の巻尾を飾るのも、また夏石氏の代表句の一つ。

千年の留守に瀑布を掛けておく

巻頭句「未来より」とは、「滝」「瀑布」ということばによって呼応しており、句集における夏石氏の作品配列の美意識の一端をかいま見ることができる。そして、この句においてやはり注目すべきは、「千年の留守」という気の遠くなるような孤独な時空間において、「瀑布を掛けておく」という超越者の孤独な営為を描いた点ではないか。

4 「漆黒史」

この章は諧謔の色調が濃いという印象を持つ。

国旗は黒旗・刻苦勉励・主婦の友
右翼曲折一日一膳絶好調!
桃の花なんだどうした三鬼の涙
銃後の春の丸太の皮を剥ぐ遊び
シンデレラ・ランプ・プラウダ・ダンピング
立入禁止・かんらからから・Coca-Cola

思わず吹き出したくなるような諧謔に満ちたこの章のタイトルが「漆黒史」というのもイロニカルだ。

これは九重の倒木の紅葉

「これは……」という措辞は、謡曲の常套的言い回しであり、かつて談林派に好まれたパロディの手法だ。

君の処刑前の体重より重い雲だ

前章には

一行の詩が処刑台のやうに響く朝だ

という句もあり、ともに碧梧桐の「曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ」を想起させる。ただ、碧梧桐句より、前句はずっと諧謔が効いており、また後句はずっと美しい。

5 「塵のための犠論」

雪は塵に塵は我にならざるも

この章のタイトルの由来を思わせる句だ。いくつかの読みが可能だ。「雪は塵に」で大きく切れば、美しかった雪は虚しい塵と化し、しかし、塵は我にはならない、という趣旨となろうが、一続きに読めばその逆に、雪は塵には、そして、その塵は我にもならないという趣旨になろう。「ならざるも」という措辞も、「も」を逆接の接続助詞と考えて「ならないけれども……」もしくは「ならなくても……」と解釈してもいいし、上代風に終助詞と考えて「ならないことよ」と詠嘆に解釈することも不可能ではなかろう。いずれの解釈をとっても、私の胸には、一読、寂しさがつきまとう。

畢竟秘門の落書に蛍はとまる

句集一巻の巻末はこの句で締められる。「秘門の落書」とは謎であるが、『真空律』の予告のようにも読める。それにしても、「蛍はとまる」という結句はなんと静かな翳りのあることか。

6 生生流転

私は、再三、「孤独」や「寂しさ」、「静かさ」を指摘してきた。いささか、意識的に過ぎたかもしれない。しかし、『メトロポリティック』を縦貫するこの「孤独」という通奏低音が、「異形の他者を招来しようとしてせりあがった虚空の祭壇」(「あとがき」)たらんとする夏石氏を、地霊との交感や、地球への巡礼、世界との連帯へと、その後導いていくことになるのではないか、と今は考えている。臆説に過ぎないかもしれない。前回『猟常記』論で、金子泉氏は、「現在も未知なる俳句を求めての彷徨は続く」と述べた。私は「夏石番矢」の登場、と前述した。「夏石番矢」は生生流転する。ゆえにその実体は、現時点では明らかにされるはずもない。

*『Métropolitique』の底本は、『夏石番矢全句集 越境紀行』(2001年10月、沖積舎)所収のものを用いた。

(「吟遊」第26号、吟遊社、2005年4月20日刊)

〈希望〉まで—あるいは鎌倉佐弓の俳句について

Toward “Hope”: About Sayumi Kamakura’s Haiku

〈希望〉まで—あるいは鎌倉佐弓の俳句について

Shin’ichi SUZUKI

鈴木 伸一

 手元の『映画監督ベスト101』(川本三郎編、新書館、1997年)という本に、今は亡きアメリカの名監督フランク・キャプラ(1897~1991)に触れた次の一節があります。

世界でもっとも愛された幸福な映画は何だろう?アメリカ人ならば、おそらく多くの人が口を揃えて『素晴らしき哉、人生!』(原題「It’s a wonderful life !」1947)と答えるに違いない。小さな町の人々のために自らの夢と希望をひとつずつ犠牲にしてきた善良な男、ジョージ・ベイリーの物語(後略)

この映画史上あまりにも有名な作品については、今さら私がくどくどと申し上げるまでもないでしょう。が、夢や希望が次々と台無しになり、ついには自殺にまで追いやられたジョージの許に現れた天使が見せる、もうひとつの世界、すなわち彼がもしも生まれなかったら周囲の人々の人生はどのように違ったものとなったか?という問いかけには、映画を観るたびごとに考えさせられるものがあります。なぜなら、私自身のこれまでの半生を振り返ると、必ずしも自分の思い通りに歩んでこられたわけではなく、「あの時、違う道を選択していたら、現在はどうなっていただろう?」という空想と、ある種の後悔にとらわれることも、一度ならずあるからなのです。むろん、それは大抵の場合、他愛もない空想に過ぎず、また空想することによって、現実を受け入れてゆくための精神的な癒しを得てもいるようなのですが、それでもやはり私たちの内面の奥深くには、「別の人生」に対する願望が眠っているのではないかという思いを、どうしても拭い去ることはできません。
とは言え、あまり間口を広げ過ぎると収拾がつかなくなりますので、取り敢えず俳句に絞って話を進めましょう。私は俳句と関わって四半世紀近くになりますが、そうした年月の中には、やはり先ほど述べたように、幾つかの選択肢を前に決断を迫られる事態に直面したことがありました。その都度、私なりに決断を下し、そして現在、『吟遊』同人としての私がここにこうしているわけですけれど、もしも二十代のころのようにいわゆる伝統派の俳句結社に属し、何の疑いも持たずに有季定型俳句を書き続けていれば、今ごろは俳人協会の新人賞くらいはとれて、俳句結社のひとつも主宰していたのではないかと思います。いささか自信過剰に見えるかもしれませんが、伝統俳句の世界というのは畢竟、その程度のレベルです。そうした世界にしばらく身を置いていた私が言うのですから、ほぼ間違いはありません。いずれにせよ、弟子に囲まれ、“先生”と呼ばれ、俳句ジャーナリズムからもてはやされることが好きな人間には、この上なく居心地のよい場所でしょう。かく申す私も、そういう地位への欲望がまったく頭をもたげない、と言ったら嘘になります。こんなことを書くと、「仮にも表現者たるものは、自分の下した選択に責任を負え!」との批判を受けそうですし、それはたしかにその通りだと思います。それゆえ私は、私自らの意志で選択した『吟遊』という創作の場に、大きな誇りと自負をいだいています。が、悲しいかな、その一方でときどき本音と建前が違ってしまうのが人間というものかもしれません。
そして、今私が申し上げてきたことについて、鎌倉佐弓さんはどのように思われるでしょうか?と言うのも、佐弓さんも私と同じように、俳句作家としての出発点は「伝統派」であったからなのです。

ここで、思い出話をひとつ記しておきましょう。
正確な日時は失念してしまいましたが、たしか十五年ほど前だったと思います。「精鋭句集シリーズ」(牧羊社)という全十二冊のシリーズ句集の完結を記念して、東京で祝賀会が開かれました。当時、我が国の俳句ジャーナリズムは空前の新人発掘ブームと言ってよく、かなりの数の新人作家が登場してきましたが、その中でもこのシリーズに入集した十二人は、作品の質、俳句に対する見識ともにトップクラスに位置する作家たちでした(ちなみに夏石番矢さんの『Métropolitiqueメトロポリティック』も、その中の一冊です)。そして、このシリーズをきっかけとして若い作家たちの句集がぞくぞくと出版されてゆくのですが、これに先立つ1984年に、佐弓さんは第一句集『潤』を出しており、また、すぐれた新人としてすでに高い評価も得ていました。つまり、前述の十二人よりもさらに先をゆく、いわば新人としてのトップランナーであったということは、衆目の一致するところでした。こうした点から、参集した大勢の若い作家たちを代表して佐弓さんが祝辞を述べられたことを、私は今でもよく覚えています。語弊があったら謝りますが、当時の佐弓さんは、まさしく俳句結社「沖」のプリンセスであったように見えます。もしもそのまま大人しく結社にとどまり、伝統的な俳句を作り続けていたら、同じ「沖」出身の正木ゆう子さんや中原道夫さん以上の売れっ子となっていたことでしょう。
しかし、もしもそうだったとしたら、私のこの文章は、残念ながらここで終わってしまいます。空疎な賛辞に囲まれた人気俳人鎌倉佐弓の姿など、私は文章にしたいとは思わないからです。が、賢明にも佐弓さんは、そういう安易な道を選択することはありませんでした。したがって、私にとっての鎌倉佐弓論は、あらためてここから始まるという次第なのです。
ともあれ、「もしも」という空想ではなく、いま目の前にいる佐弓さんについて、具体的に論じるべきときが来たようです。
「沖」を出た後、それまで私はいろいろな方にチヤホヤしていただいていたのですけれども、俳壇というところからも無視されるようになりましたし、ああそうか、結社にいるということはこんなに力があることなんだと思いました。
これは雑誌『俳壇』(本阿弥書店)1999年4月号の座談会「定型とことば」(同席者 金子兜太・中原道夫・仁平勝の各氏)での、佐弓さんの発言。まさに実感だろうなあ、と思います。とにかく、「何かにつけてチヤホヤする」というのが、大方の俳句結社における新人の遇し方ですし、それによって有為の新人が次々とダメになってゆくというのも、また多くの結社のたどる道です。まあ、それで消えてゆく若い作家は結局、俳句の将来に加担するだけの力量を持ち合わせていなかったということなのでしょうが、さすがに佐弓さんは、そうした危険性を察知する鋭敏な感覚の持ち主でした。
ところで、佐弓さんが「沖」を離れて、すでに十年以上経つようですが、なるほど「沖」離脱後しばらくの間、佐弓さんは俳句ジャーナリズムから冷遇されていたことを私も承知しています。まさに、「結社の力」というものを思い知らされもしたことでしょう。そして、私もたまたま同時期に、それまで所属していた結社を退会したこともあって、ある種の親近感を覚えながら佐弓さんの動向を注視していたものでした。しかしながら、少なくとも私自身は確信しているのですが、そうしたつまらぬ俳壇的力学から解放されたことは、むしろ俳句を作る者にとって幸せであったはずです。何しろ、世俗的な評価や大衆の支持を手放したかわりに、それよりもはるかに大切な「作家としての自由」を手に入れたのですから…。
(前略)いつか私は季語にこだわらなくなるに違いないという気はしていたのですが、「沖」をやめるときに「私は季語にこだわりたくありません」って言う自信はなかったですし、第一、作品も作っていなかった。でも、「沖」にそのままいたのでは季語を使った句をいままでのように発表していかなければいけません、「沖」は有季定型の場ですから。だから、ここを一歩飛び出さなければ私は私の句を作っていけないという気持ちもあって、それで進み始めたのです。
先の座談会で、佐弓さんは自分の進むべき道をどのように決断したかについて、こう語っています。俳句作家としての佐弓さんの立場は、季語と、季語以外の言葉を等価に見て、それぞれを大事にしてゆこうということですが、このしごくまっとうな考え方が、実は俳壇的にはいまだに少数派と見なされているというところに、現代日本の俳人の見識の低さと、あるいは十年一日のごとくに変わらない保守的・閉鎖的な性格がうかがえるでしょう。しかし、世界俳句への歩みが確実に始まっている今日、このままの状況でいいとは思えません。

柩には窓を海原には風を         「吟遊」第6号、2000年3月
蔦・杉・松ひかりが集う樹よいずこ     同   第9号 、2000年12月

佐弓さんの近作中で、私が特に感心した二句ですが、「風」「ひかり」というキーワードに、現在の佐弓さんの指向するものの一端が見て取れるように思われます。それを私なりに言えば、可視と不可視の境目、あるいは現実界と異界の境目への指向ということになりましょう。見えないものを見る、聞こえない音を聞く、こうした創作行為を続けてゆくのはなかなかしんどくて、よほど強い意志と志がないとできないことでしょうが、しかし、それがやがて私たちの存在そのものの意味を逆照射してくることになると思うのです。そして、この困難な行為を誠実に実践している佐弓さんを、私は信頼したいのです。
さて、ここでもう一度先の座談会から引用しますが、こういう発言があります。
私がいちばんショックを受けたのは、(中略)三橋鷹女の作品でした。鷹女の作品に出会ったとき、この人はなんて自分の内面を深く追いかける人なんだろう。恐らく苦しかっただろうけれど、ある意味じゃこれが喜びでもあったんだろう。すごいことだと思ったのです。
これを読んで、私ははたと思い当たりました。鷹女もまた、俳壇的しがらみから身を遠ざけ、ひたすら自己の信じる道を突き進んだ稀有の作家でした。特に、女性俳人としては、その先駆的存在と言ってよいでしょう。そして、作品の質は違うけれど、鷹女も佐弓さんも志の高さと意志の強さという点で、どうやら共通するものがあるようです。佐弓さんの前を行く作家として、確かに鷹女こそはふさわしい人物だと思われます。

るり紐欲しわたしの春をつないでおく   「吟遊」第3号、1999年6月
白磁なる壺あり霧はまだ溜まらぬ      同  第5号 、1999年12月

例えばこの二句など、鷹女の後裔的な雰囲気が感じられるような気がします。前句には自己所有への欲求があり、後句にはその欲求が満たされないことの欠乏感があるでしょう。こうした自己内面への容赦のない切り込みと、それを詩的に描き切る修辞力は、鷹女の作品にも顕著な特徴のひとつと言えます。
私はフランスにいたとき、三橋鷹女も振り切って、ちっぽけだけれど私は私なりにやっていこうと決心できました。(同座談会)
そして現在の佐弓さんは、この発言からも判るように、鷹女をも乗り越え、いよいよ自分独自の道を切り開きつつあるように見えます。俳句作家としては、まさに正念場にさしかかったと言ってもよいでしょう。

林檎割る帰心もすっぱりと割れよ    「吟遊」創刊準備号、1998年9月
秋冷に濡れてはならぬ丸木橋       同     第4号、1999年9月
野はどこも正面フリスビー進め        同     第5号、1999年12月
水を渡り山越えるべし希望まで       同     第9号 、2000年12月

これらの作品における「割れよ」「濡れてはならぬ」「進め」「越えるべし」といった命令や打ち消しの表現に、敢えて困難な道へと歩を進めようとする佐弓さんの高揚した精神が出ているのかもしれません。また、いずれにも潔い、そして前向きな意志が貫通しているのも注目したいところです。何と言うか、目に見えない悪のようなものをきっぱりと拒み、よりよき明日への道を真摯に探求している、といった感じがするのですが、私の貧しいボキャブラリーでは、どうもうまく言い表すことができません。ひょっとしたら、こういうのって人類愛と言うのでしょうか?それも、日本人の間でのみ通用するといったローカルなものではなく、もっとグローバルな人類愛という感じです。
そう言えば、佐弓さんは中村草田男も愛読していたらしい。なるほど、草田男は生涯にわたって人類愛を詠い続けたという印象の作家です。ただ、良くも悪くも、いかにも生真面目でした。もとより、佐弓さんが不真面目というのではありませんが、草田男に比べるとずいぶん自在だという気がして、それは例えば、渡り鳥が軽々と国境を越えて飛んでゆくのに似ています。そうした特性は、佐弓さんの持って生まれた資質に拠るのかもしれませんが、同時に夏石番矢さんの存在も大きいのだろうと思います。ともあれ、草田男の作品にあるのが近代的、かつ日本的な人類愛だとすれば、佐弓さんのほうはきわめて現代的で、しかも世界規模の人類愛だと言ったら、贔屓の引き倒しになるでしょうか。ですが、例えば先に挙げた二句が次のように英訳されたとき、その魅力がいっこうに損なわれないどころか、かえってすぐれた「詩」として、それこそ渡り鳥のように国境を越えて人々に感銘を与えてゆくであろうことは、想像に難くありません。ですから、私が申し上げたことも、あながち見当違いではなかろうと思うのです。

蔦・杉・松ひかりが集う樹よいずこ

ivies, cedars, pines
where is a tree
on which the light converges

水を渡り山越えるべし希望まで

we shall cross water
we shall pass mountains
before reaching “hope”

(訳 青柳フェイ/ジム・ケイシャン)

両句とも、2000年9月にスロベニアのトルミンで開催された世界俳句協会創立会議の折に作られ、アンソロジー『透明な流れ』(夏石番矢編、吟遊社、2000年)に収録されたものです。先に述べた両句のグローバルな作品世界は、海外で詠まれたという外的な理由からではなく、鎌倉佐弓という作家の、紛れもない個性に拠るものだと理解するべきでしょう。例えば、二句目の「水」は川でもない、湖でもない、海でもない、まさしく「水」なのです。そして逆に、それが道ばたの小さな水たまりから果てしない大洋までを私たちに想像させ、同時に「希望」までの長くて困難な道のりをも暗示しているかのように思わせます。確かにこれは、世界俳句の見事な成功例と言えるでしょう。
もちろん、従来の佐弓さんにはこういう傾向の作品だけでなく、これまでにも多くの評者が論じてきた「女性性」を詠い上げたもの、あるいはユーモアとエロチシズムが渾然一体となったものなどがあり、その守備範囲はかなり広いという印象を受けます。

この母の骨色の乳ほとばしれ      句集『天窓から』、1992年
「ごめんなさい」お尻ほのかに暖かし  句集『走れば春』、2001年

それぞれの傾向をよく表した秀作ですが、ただ私の見る限りでは、近年の佐弓さんの作品からは、どちらの傾向も薄れつつあるように思われます。これは多分に私の個人的期待も含まれますが、いま佐弓さんは湿潤な日本的風土を越え、また女性性や、その他諸々の特質をも越え、いわば一人の「地球人」として俳句を書こうとしているような気がします。そこには、私たちの知らない視野の広々とひらけた世界が、きっと現れてくることでしょう。

(「吟遊」第11号、吟遊社、2001年7月20日刊)

夏石番矢句集『猟常記』を読む

Reading Ban’ya Natsuishi’s Haiku Collection “Ryojo-ki”

夏石番矢句集『猟常記』を読む

ryojoki

夏石番矢句集『猟常記』、静地社、東京、1983年2月28日刊
Ban’ya Natsuishi, Haiku Collection “Ryojo-ki”, Seichi-sha, Tokyo, February 1983
Izumi KANEKO
金子 泉

 

1 はじめに
初期の夏石番矢氏の俳句は詰屈で難解、既成の俳句の枠を破るために、身中の黒いマグマを爆発させるようなエネルギーが感じられる。かつて一〇〇人程の俳人の代表作が網羅してあるアンソロジーを読んだ時、『猟常記』『メトロポリティック』『真空律』など、氏の俳句が目に止まった。その時の衝撃は大きく、現在の私の俳句創作に大きく影響を及ぼしていると思っている。
夏石番矢全句集『越境紀行』(2001年10月、沖積舎)に挟み込まれていた栞には、飯島耕一氏のメッセージが寄稿されていたが、その中に次のような記述がある。
わたしは江戸俳諧、なかでも其角が眼中にある。今日の俳人では東の加藤郁也、西の岡井省二の句を好む。滑稽と色好みとスケール感と「へそ曲がり」。草の戸に我は蓼くふという反骨だ。この全句集の前半には右の徳目につらなる精神が旺盛だった。

今回取り上げる『猟常記』(1983年2月、静地社)は夏石番矢氏の第一句集である。『真空律』『神々のフーガ』など後続の句集で扱われるテーマの萌芽も窺える。
句集には、高柳重信と芳賀徹、両氏とも夏石氏の師なのだが、彼等からの激励、賛辞が収録されている。高柳は「未知なる『俳句』を求めて彷徨する」希少な俳人として、芳賀は「ゴーガンやランボーがよみがえって」きたような「野獣のごとき俳人」として夏石を評価している。本稿では、二人の解説の恩恵を多分に受けているといえるので断っておく。

2 全体の印象、タイトル、構成
印象批評ではあるが「猟常記」を俯瞰してみると、子規よりも芭蕉よりも古代に遡及しつつ、言葉の再構築、神話の再構築を行っていったと考えられる。
天への志向や鳥・虫への親近感はアニミズムのストレートな表出であり、古代への志向の一端といえる。同時に視野の狭い日本崇拝を脱却してより全世界的に普遍的な古代への憧憬、古代礼賛が謳われているようだ。
また、言葉の上での挑戦的な試みが行われている。俳句にとって皮肉、韜晦、諧謔は欠かせない重要な要素だが、『猟常記』は、より独自の言葉のあやを追及し続けた軌跡ともなっている。
『猟常記』というタイトルは、『日本霊異記』に由来するという。『日本霊異記』は、平安時代に成立した日本最古の仏教説話集。善行、悪行、それぞれ相応の報いが来世でなく現世の内に跳ね返ってくるという因果応報が大きなテーマとなっており、他に人が獣と結婚する異類婚姻譚や妖怪譚も含まれている。「猟常」とは、「霊異」をもじったものだろうが、常を猟ると読めば、フィクションよりも奇々怪々な日常の世界を題材として追いかけるという宣言にも受け取ることができよう。
句集の構成は大きく分けると六章からなり、第六章の「猟常記」は更に次の四つの作品群「穂絮の国」「呆悦の国」「弩(いしゆみ)の国」「喪心の国」に分けられる。

3 気になる句、印象に残った句
前章では句集全体の印象を述べてきたが、ここでは印象に強く残った句を一つずつ挙げ、感想など述べていきたい。何か読みの可能性を広げるヒントになるものがあれば幸いである。

降る雪を仰げば昇天する如し

「非鳥汎游」では、雪や虹、花火、蜘蛛の糸、鳥、虫など天空や空を飛ぶものへの志向が窺える。天空への志向は、詠み手が天地創造もなしうる神になりたいという欲望を思わせる。
「降る雪を」は句集の第一句目。天を仰げば、無数の雪片が絶えず落ちてくる。「昇天」という言葉によって、雪が圧倒的な力を以て視界に迫ってくるさまを鮮やかに切り取っている。

赤富士の裾野へ落つる飛魚よ

読んで忽ち映像が浮かぶ作品。飛魚の動きは、飛翔と墜落とを象徴していると考えられる。赤富士の山頂高く飛び上がり、裾野へ落下する大胆不敵な飛魚は、詠み手自身の戯画化なのか。

樹より降る蛭も昔の友なりき

密林で不意に出くわしてしまった蛭に、詠み手は親近感を抱いている。蛭も古くから森の住人であり、詠み手は古代の平和な森を夢想し、懐かしむ気持ちの強さを逆説的に表現したかったのだろう。

澄む虚空(そら)の鳶の頭に宿る虫

空高く舞う鳶の頭にいる虫まで見える。そんな視点を持つものは誰だろう。詠み手はやはり神になりたいのか?

谷空の鳥への投石続くなり

大空を自由に飛翔する鳥に苛立ちをぶつけている者がいる。詠み手の強い天上志向が表れている。投石という動作からは、力強さと幼さと二つのイメージが想起できる。

羽毛乗るcercle(だうだう) vicieux(めぐり )の一葉舟

危なげに流れを辿ってゆくひとひらの舟も、そこに乗る小さな羽毛も、人生を象徴しているのだと考えられる。俳句界に乗り込んでいく一俳人のささやかな諧謔。

家ぬちを濡羽の燕暴れけり

若者のエネルギー、攻撃的な衝動や性的衝動の発露を表現している。燕のけたたましい羽ばたきとでも言ったらいいのか、激しさが映像としてよく伝わってくる。

虫を祭れる船や音なく燃え盛る
葦原の 合掌の 船長の 大きな肘よ
朝日夕日も見えざる河口を母と呼ぶ

「酩酊船焼失」では古代日本の神話を想起させる句もあり『真空律』のイメージへと通じている。
「非鳥汎游」に描かれていたのは天空と地上の間に視点を据えた世界。この句からは海と陸、間にある河口へと、視点が変わっている。船が焼失し船長は沖へ、という展開が高柳重信の作品にあったと記憶しているが、ここでは母なる河口へと向かう。この章では父母へ故郷へ古代へ回帰するという志向が強調されている。

泳ぐかなからくれなゐの形代と

一切の厄災を託されて流れている形代。くれないなのは血で染まっているからなのか。詠み手の意識は形代に寄り添っている。規格外であると判断され捨てられるヒルコではないが、私も一切の受難を受け止めて流れていくのだ、いく分特別な存在なのだと言いたげでもある。

なまぬるき滝たちならぶわが前線

私の前に立ちはだかるのは滝だが、なまぬるい。2004年、球界への新規参入に立ちはだかったのは、既得権益を守る為なのか内部で凝り固まっていて話の通じないおじさん達。「猟常記」を引っさげて俳壇への新規参入、所謂俳壇の大御所であるおじさん達はどういう反応を見せたのか。

階段を突き落とされて虹となる

不意に殴られて火花が出る、というイメージと近い。天を仰いで昇天するイメージを抱いた詠み手は、墜落の衝撃にも恍惚のイメージを鮮やかに喚起する虹を配置した。

水際に蛇紋を纏ふ母を見き

池や湖沼に女の龍がいるという設定は各国の説話などに見られるらしい。いずれは天上にいる父の元へ昇るのだが、今は地上にいる母の元で癒され、英気を養う龍の子のさまを思い浮かべるのは飛躍が過ぎるだろうか。

乾(ひ)反葉(ぞり ば)も巨(こ)海(かい)を航(ゆ)くやわが忌日

一葉舟が水面を漂う映像はこの句でも繰り返される。

伏せば硝煙立てば乳の香わが半島
振り回す獣(しし)も袋や巌の原
la(に) Revolution(つぽんか) japonaise(くめい) 無し 濤の秀(ほ)を打つ霰
戦前の岬に蝙蝠傘が立つ

「反舌篇」では、言葉のあや、諧謔が強調された展開になっている。既成の価値、秩序の転倒を図っている印象が強い。

さう囁くは獅子頭山羊身龍尾の主か

靡靡教とは、お上に靡け、共同体の慣習に靡けという悪しき教えのことでは、と勝手に想像してしまった。この句を読むと、悪魔が囁くという言葉を連想するが、悪魔は敵か、味方なのか。

祭壇の一穴よりの青葉騒

未知なる俳句を希求する夏石番矢は、「異形の他者を招来しようとしてせりあがった虚空の祭壇でありたい」と句集「メトロポリティック」のあとがきに書いている。共同体からはみ出た者に見えてくる世界を描こうとして生まれる俳句を象徴しているように思える。

裏山に投げ捨てられたる歯が繁る

葉ならぬ歯が繁る。言論統制のもとで抜かれたのか、捨てられてしまった夥しい歯が今にも声をあげそうな光景。野に転がるしゃれこうべが歌を歌い出すイメージを連想できる。

曼荼羅を敷き臥し繭となりはつる

祭壇に羽化を待つ繭が置かれている光景は、「酩酊船焼失」に出てくる虫を祭れる船のイメージと重なる。再び船を出す機会を窺いながら繭は眠る。

雷(いかづち)の婚(くな)ぎの恩寵(がらさ)や大八州

「Paraphysica」より。イザナギとイザナミの神が交わり、国生みを行ってできたのが日本だという神話の再現。詠み手は古代に遡って、もう一度自らの手で日本神話を書く強い欲求を持っている。

壜の中二隻ののえの箱舟(あるか)かな

ノアの箱舟が壜の中に納まっているという諧謔。

水無月の水際の母の光背(あうれよら)

水際にいる母のイメージが再び出現している。龍女もマリアも母なのである。

殉教者(まるちる)やほととぎすの巣の絶対湿度

ほととぎすの巣の絶対湿度とは、閉塞状況に陥っている俳壇をさしていると考えられる。殉教者とは、ほととぎすの信者のことなのか。

秀句(すく)を吟ずる雪花(あらば)石膏(すとろ)の髑髏(ひとがしら)

抜かれた歯が繁るイメージのバリエーションだと考えられる。

朝は来たらず 母を囲める蛇・蝦(かへる)

「葛と藤の国」より。女性の周りを蛇や蝦が囲むという設定は、泉鏡花の『高野聖』を想起させる。母のいる朝日の射さない薄暗い場所とは、胎内のようでもある。

村村の夏の鳥居を抱くなり

故郷への親近感が描かれた句。

降る雪や野には舌持つ髑髏(ひとがしら)

「弩の国」より。ここでも喋る髑髏が登場している。

花食ふ我へ大百(だいびやく)牛車(ぎつしや)来たりけり

「喪心の国」より。狂気に陥った「我」を何百台もの牛車で迎えにくるのは天上の兵卒なのか。芥川龍之介の作品にも登場する夭折の天才ラディゲであったか、狂気の人となって天使の兵卒が私を迎えにきているといったらしい。喪心とはこの「我」なのか、それとも「我」に眉をひそめる物言わぬ群集なのか。

夕立や轡並べて駆け出す死

第一句の昇天と同じく、最終章の末尾においても天と死との取り合わせが繰り返し登場した。若者の生の衝動と死への衝動とは背中合わせである。夕立の勢いと、荒馬が駆け出すような勢いの描写で死を修飾した美しい表現で、この一大叙事詩は幕を閉じる。

4 おわりに
夏石番矢氏は句集『漂流』(『夏石番矢全句集 越境紀行』、2001年10月、所収)のあとがきで次のように述べている。

俳人とは本来、共同体に埋没できずに、詩的真理を求めて心身ともにさすらう人間を意味していたはずである。

氏は、その漂流の原点といえる「猟常記」以後、日本神道を育んだ森へ、アジアへ、ヨーロッパへと神や祭礼を、普遍的な古代を求めて踏査してきた。その成果が俳句創作に反映されているのだが、現在も未知なる俳句を求めての彷徨が続く。

*今回作品の引用は『夏石番矢全句集 越境紀行』(2001年10月、沖積舎)から行った。
(「吟遊」第25号、吟遊社、2005年1月20日刊)

「世界最短の詩」をめぐって

About “the Shortest Poem in the World”

Hideki ISHIKURA
石倉 秀樹

2005年9月19日、インターネットのGoogleで「世界最短の詩」という言葉を検索してみたら、52件のヒットがあった。ほとんどが俳句もしくはHAIKUに関わる記事だった。このことから、わが国では、「世界最短の詩」といえば俳句だということが常識化されていることがわかる。
詩の長短は、何を基準に計ればよいのか、わたしにはよくわからない。しかし、多くの記事が、俳句の五七五をもって「最短」としているようだ。「俳句は世界最短の詩」と最初に言ったのは誰なのか。そして、もしその人が俳句17字をもって世界最短といったのだとしたら、その説がいっこうに訂正されることがないのはなぜなのか。
中国に「十六字令」という詞がある。中国では「詞」を「詩」と呼ぶことはない。しかし詞は、字数に定めがあり、押韻もし、平仄もありの定型の韻文であるから、俳句を世界最短の「詩」とするなら、詞も「詩」である。この意味での「詩」を中国では「詩詞」とよぶ。そして「十六字令」は、俳句よりも1字少ない16字16音節の詞だ。

宋代の蔡伸の作に、
天,休使圓蟾照客眠。人何在,桂影自嬋娟。
現代の毛沢東の作に、
山,快馬加鞭未下鞍。驚回首,離天三尺三。

「十六字令」の詞譜は、
☆。▲●○○●●☆。○○●,▲●●○☆(または○○▲●☆:毛沢東の作)。
○は平声、●は仄声の語で詠まねばならない箇所、▲は応仄可平、すなわち仄声で詠む方がよいが平声でもよい箇所、☆は平声で押韻しなければならないことを示す。
「十六字令」といえば、蔡伸の作が多くの詞の入門書に引用されているが、毛沢東の作も素晴らしい。毛沢東は、今日の中国を築いた偉大なリーダーであっただけでなく、20世紀の中国詩を代表する詩人のひとりでもあった。
そして、2005年9月19日の時点で、日本人が書いてインターネット上に公表されているもっとも新しい「十六字令」はといえば、

蛍。雨後黄昏草満庭。懐童處,蕩蕩一燈青。

ではないだろうか。作者はだれかといえば、わたしが所属する漢詩結社葛飾吟社の高橋香雪さん。
さらに、詞には「竹枝」という14字のものもある。皇甫松という人の作に

山頭桃花(竹枝)谷底杏(女児)。兩花窈窕(竹枝)遙相映(女児)。

ここで(竹枝)と(女児)は「和声」といって、定型の合いの手である。これを除く14字を填める。2字目を平声とするほかは平仄不問、平声押韻・仄声押韻の二体がある。
しかし、この「竹枝」14字がもっとも短いかというと、中国には、12字の定型詩もある。「神智体詩」といい、蘇軾が初めて書いた。ただ、この詩体は、文字は12だが、読めば七言絶句28音節になる。

神智体:亭景画,老□○。首雲暮,江△峰。

読み :長亭短景無人画,老大横□痩竹○。
回首斷雲斜日暮,曲江倒△側山峰。
□=手へん+施-方 ○=竹+叩-口+工
△=草かんむり+酉+焦

□○△の意味は適当に読みとばしてください。この詩、起句は「亭景画」の3字。これを「亭」は縱に長く、「景」は縱を短く書くところがミソ。そして、どう読むかというと、「長亭短景無人画」と読む。
以下、紙幅の都合もあり説明を省略するが、文字を長めに書いたり短めに書いたり、斜めに書いたり逆さまに書いたり、さらには左右を逆に回転させたりして、3字1句×4の12字をそれぞれ7字7音節に読んで、7字×4の七言絶句にする。「暮」という字のなかの「日」の部分を斜めに書けば「斜日暮」という読みになる。ちなみにこの詩は、遼の国から宋にやってきた使者が、蛮夷の出身であるのに博聞多識、漢詩を書くのも上手だと知って、蘇軾が、この詩を読めるかと示したものであるとか。
中国詩には、さらに字数の少ない定型もある。十字回文詩。上海の葉秀山という人がこれを書いている。小生、秀樹。秀山と秀樹。山があれば樹もあるだろうというご縁でわたしも追随させていただいた。

人愚忘      吾呑酒笑笑人愚
笑   欲     笑笑人愚忘欲無
笑   無     無欲忘愚人笑笑
酒呑吾      愚人笑笑酒呑吾

拙作、左が十字回文詩であり、右が読みである。つまり、七言絶句体である。読み下せば、

われ酒を呑んで笑う 笑う人の愚かしきを
人の愚かしさを笑い笑って 忘れて無にならんとす
無欲にして愚かなるを忘れれば 人 笑いに笑い
愚かなる人 笑い笑えば 酒 吾を呑む

さて、神智体詩にしろ十字回文詩にしろ、なんだ、言葉の遊びではないかというそしりがあるだろう。わが国の文学善男信女には、他作の長所よりも短所を見つけることである種加虐的に自己を守る防衛本能があるようだ。そして、そのこと自体は、善いとも悪いともいえない。
しかし、十字回文詩は、単なる言葉あそびに留まるものではない。拙作十字は、「忘欲無。吾呑酒笑,笑人愚(忘れて無からんと欲す。われは酒を呑んで笑う、笑う人の愚かなるを)」とだけ読むことができる。韻字は「無と愚(下平声七虞)」。平仄は「仄仄平。平平仄仄,仄平平」。詩としての内容の良し悪しは他評にゆずるが、拙作は、中国古典詩詞の韻律を踏まえている。つまり、日本人のだれがなんと言おうと、中国の文人にみせれば、これを詩と認める。言葉遊びでも韻律をふまえているのだから、「詩」である。
ただ、拙作の10字は、それを書いたのは葉秀山とわたしぐらいだろうから、定型詩とはいえないだろうという人がいるかも知れない。しかし、そうではない、定型だ。拙作は、あえて回文だと断わらなければ、10字の定型詩として通用する。
葛飾吟社創設者の中山栄造は、この10字の詩を、日本の俳句や川柳の響きを漢語で表現することを可能にする新しい定型として提唱し、「曄歌・坤歌」と名付けた。そして、1997年、中日友好協会・中華詩詞学会の招聘で、日中国交正常化25周年記念行事として北京で開かれた「中山栄造新短詩研討会」において、中国詩詞学会のメンバーから定型詩として成り立つものと認められた。俳句に倣う三四三は「曄歌」、それ以外は「坤歌」である。この曄歌・坤歌は、わが国では今のところ葛飾吟社の同人だけが詠んでいるが、中国では少なからずの人がすでに詠んでいる。
しかし、曄歌・坤歌が世界最短かというと、そうではない。中国の高名な詩人であり書道家である林岫女史から、中国でもっとも古い詩は、二二の4字であったと聞いた。今、それがどういう詩であったかは思い出せないが、押韻はしていなかったように思う。しかし、対句ではあったと思う。二二の対。この詩型を念頭に1首試みるなら、たとえば、

花開,人老。   花開き 人老ゆ。

拙作、詩情があるかどうか以前の問題として、どれだけのオリジナリティがあるのか不安がある。この程度のものは、中国でもっとも古い詩の時代に、今は無名の誰かによって、すでに作られているように思う。
しかし、オリジナリティをどう確保するかという問題があるにせよ、二二の4音節は、世界最短の定型詩としての極限ではないかと思えてくる。詩にはそれを構成する句があり、句は単に語を並べるだけではだめでそれ自体が一文となっていなければならないと考えるなら、その一文を構成するためには、最低2語が必要である。たとえば、花開。そして、その句が文としても通用するとしても、定型詩としての「格律」を備えているかどうかを考えるなら、最低四字は必要となる。「格律」とは、各句の字数と押韻。中国詩ではこれにさらに、平仄を加えることもできる。
そこで、押韻の四字詩。

山高,人小。   山高くして 人は小さい
また、
星馳,人死。   星馳せて 人は死ぬ

しかし、1語をもって詩とするわけにはいかなくても、2語あれば十分という例が、インターネット上の記事にあった。前世紀八十年代初頭、ハーバード大学の卒業生に向けて読まれたメッセージに、「Me, we!」。卒業生から大喝采を受けたと書いてあった。これはすごい。確かに詩だ。押韻している。MをさかさまにすればW、みごとな対句だ。含蓄もある。作者は、モハメッド・アリ。そういえば、アリは「蝶のように舞い、蜂のように螫す」ボクサーだった。見事に対句だ。もし彼が中国に生まれていたら、毛沢東のあとを継ぐ詩人になっていたかも知れない。とすれば、ボクサーが詩を作ったのではなく、詩人がボクシングをしたということか。
さて、中国詩から英詩に移ったところで、どうしても忘れてならないものにHAIKUがある。アリの「Me, we!」これ、もしかするとHAIKUではないのか。とすれば、アリが詠んだHAIKUこそが「世界最短」。
しかし、多くのHAIKUは三行詩として詠まれるようだし、無季非定型が主流のようであっても、わたし自身、HAIKUのことをよく承知してはいないのだから、アリの「Me, we!」をHAIKUだというのは控えるべきだ。しかし、そんなわたしでも、見えていることはある。「世界最短の詩」としての俳句あるいはHAIKUは、日本の有季定型俳句ではない、ということだ。多くのHAIKUは、五七五では詠まれていない。多くは、それよりも短い三四三であったり、五六四であったり、定型の姿を見出そうとすることが無意味であるくらいにさまざまに、しかし一般に、五七五よりも短く詠まれている。
そして、これらの自由律のHAIKUを目のあたりにするとき、そういえば日本にも五七五よりも短い俳句があったことを思い出す。咳をしても一人。尾崎放哉。
このように世界最短の詩についての事実を見てくるとき、「俳句が世界最短」と最初にいった人の真意が気にかかる。インターネットで見る限りのことではあるのだが、多くの記事が日本の有季定型の五七五を「世界最短」としている。しかし、最初にそれをいった人の念頭には、日本の「有季定型」があったわけではないのではないか。今日のHAIKUを生み出すに到った詩精神を指して、「世界最短」といったのではないのか。とすれば、「有季定型」の五七五を左手に掲げつつ、右手では「世界最短」を誇ることは、いかがなものか。「日本が誇る俳句」と書くのはよいが、「日本が誇る世界最短の詩、五七五の俳句」と書くのがよくない。
しかし、それでも、世界の多くの人たちの感動を呼ぶすばらしい句を日本の俳人たちが詠んでいることを、「日本が」誇る、ということが、あるのだろうか。それを書いた本人が、意を得るのはよいが、俳句を詠む者も詠まない者もこぞり集って、それを世界に誇るということで、わたしたちは何を得ているのか。お父さんが偉い、そしたら、その子供まで偉くなるのか。
「俳句が世界最短」と世界に向かっていうことによって、わたしたちは、何を獲得するのだろうか。「俳句が世界最短」ということを知る、それによって、これから書こうとする詩に、どのようなインスピレーションを得、いかなる手法を手にすることができるというだろうか。
わたしにとって気がかりなのは、「俳句が世界最短」と説く有季定型派の俳人たちが、世界の詩の事情に通じていないということもさることながら、世界最短を説くことによって、何がしたいのかが見えてこないことだ。俳句は世界最短だから、これ以上短くする必要はない、といいたいのだろうか。それとも、もっと短くしなければならない、と考えているのだろうか。
世界の詩の事情に通じていないのに、世界最短などと世界を持ち出すことはいささか滑稽だが、それでも五七五は、わが国では最短の定型ではあるのだろう。しかし、未来永劫そうであり続けるかというと、そうではないのではないか。連歌の発句から俳句が生まれたように、俳句もまだまだ短くなる余地はあるはずだ。しかし、世界の詩の事情に耳目を覆い、俳句が「世界最短」への唯一の道だなどと信じ続ける限りは、さらに短い詩への革新は、生まれてはこない。
詩はもとより、それがどれだけ短いかを競うものではない。だから、俳句をさらに短くすることにどれだけの意味があるかもわたしにはわからない。漢語の詩詞を書く者としてわたしは、長いものも書く。短いものも書く。ここでは立ち入らないが、漢語の詩詞には、詞曲と呼ばれる定型が1000を超えてある。押韻をし、平仄をきちんと踏まえて書くということをすれば、その1000を超える定型詩の森に、わたしが考案した詩型を、新たに加えることもできる。わたしがとてもすばらしい作を書いて、多くの人がわたしの作を真似てくれれば、というありえない話が前提だが、詞曲には、そういうことにも理屈のうえでは可能性がある。わたしはこの小論のなかで、「世界最短の定型詩」がどのようにものかについて、展望を開くことができた。アリの「Me we!」を超えることはできないのだ。だから、わたしは、詩の短さだけにこだわらずに、長いものも書こうと思う。
そして、そういう立場から言うのだが、「俳句が世界最短」という言葉が付和雷同のごとくに殷々と説かれ続けていることは、わたしにとっていささか煩わしい。詩は短くなければならないと世界中の人が叫んでいるかのような悪夢が、強迫観念のように、迫ってくるからだ。短くてもよいということと、短くなければならないということは、明らかに違う。しかし、多くの俳人は、俳句は書くが短歌は書かない。そこで、「俳句が世界最短」は、詩は短くなければならない、だから俳句だけが詩だ、というプロパガンダとして、わたしの耳には響く。
そこでわたしは、「俳句が世界最短」という言葉の真意を、わたしなりにきちんと整理しておかなければならない。なぜなら、わたしは、「俳句が世界最短」ということに詩を書くのに役立つ積極的な意味を見付けられないのだが、「俳句が世界最短ということには意味がない」ということを、きちんとわたしの腹に落としておく必要があるからだ。そこで再考するなら、「俳句が世界最短」の真の意味は、その字義どおりに字数または音節の短さを世界に誇ることではなく、「五七五は短い。その短いなかにどれだけ多くのことを詠み込めるかが俳句」というあたりにあるのだろうと思う。そして、漢語で同じことを詠むなら、曄歌三四三の10字10音節で足りるが、日本語ではなかなかそうはいかないということを考えれば、俳句の道には、血の河が流れているかとも思える。俳句人口1000万人の血の滲む努力。その滔滔たる流れの源流に芭蕉が立っているのだろう。そして、その血の河の河口付近での広々とした思いが、「俳句は世界最短」という詩的誇張へと、言葉を躍らせたのではないか。
そういえば李白も、自らの老いを鏡のなかに見て、「白髪三千丈」と詠んだ。

(「吟遊」第28号、吟遊社、2005年10月20日刊)

スロヴェニア紀行

夏石 番矢

スロヴェニアと言われても、チェコの隣のスロヴァキアと混同する読者が多いのではないだろうか。私も実際に訪れるまで、スロヴェニアについて何も知らなかったも同然だった。ところが、俳句が縁となり、二〇〇〇年と二〇〇一年の二度訪れることになった。
イタリアの東隣、旧ユーゴスラヴィアの西端にあるスロヴェニアは、実に遠い。日本からフランクフルトへの直行便を降りて、首都リュブリャーナへ向かうアドリア航空の小さな飛行機に乗り込めるまでの約六時間という待ち時間は、日本とスロヴェニアの地理的距離の遠さよりは、その政治的距離の遠さのバロメーターだろう。アメリカとロシアの大使館が閑静な中心街の道を挟んでにらみあっているリュブリャーナには、日本大使館がない。

なにかが日本に似ている国の橋わたる

実際に訪れてみたスロヴェニアは、フランスやドイツやイギリスなどの西ヨーロッパよりずっと、日本人である私にはなじみやすい。それほど根拠があるわけではないが、日本の何かをスロヴェニアの事物や人々は思い出させる。スロヴェニアに住んでいる友人たちには、自分たちの先祖と日本人の先祖は共通だと考えている人もいる。その友人たちと今度はいつ出会えるだろうか。

シュコフィアロカという中世の面影が濃い都市は、スロヴェニアの北西部にあり、スイスやオーストリアにも近い。文献には十世紀から登場するという古い町。この町を東西に流れるソラ川の丸石だらけの河原におりてみた。日本の田舎の川にひさしぶりで戻ってきた気がする。流れが澄んでいる。妻や小学生の娘もほっとした表情をしている。日本をさらに思わせたのは、川べりの白壁の建物だった。四角い木枠の窓が横に並び、日本の信州が目に浮かんできた。
さらに、この町の一軒の商店の窓ガラスに、日本の鬼にそっくりな顔がなぜかステッカーとして貼ってあった。
ソラ川に架かる石橋の真ん中には、聖ヨハネ像が安置されている。町の広場には、一八世紀のマリア像が据えられている。これらが遺物ではなく、生きた宗教装置であることは、肌でわかる。シュコフィアロカには、息苦しくない敬虔な雰囲気が漂っているのである。聖母マリアを祀った道端の祠には、ろうそくや花が絶えない。この聖母の右手の数珠(ロザリオ)の大きさは、救いの心の広さを示しているのだろうか。この世の悲しみの大きさを物語るのだろうか。
町の八百屋には、大きな赤いピーマン、大きな黄色いピーマンが、網に入れられて置いてある。その一個一個の巨大さ。また透明感豊かなつややかさ。

巨大なピーマン透明な川マリアとともに

シュコフィアロカで一泊したホテルの売店には、日本のなまはげのように仮装した人物像の陶器が飾られていた。私はどうしてもこれを手に入れたくなってしまった。頭に鹿の角、あごに鶏のとさか、全身に羊の毛皮、こういういでたちの仮装は、冬の終わりを告げる祝祭の主役、春の王を現わしているのだろう。頭に牛の角が二本だったり、赤い鬼の面をかぶったりといった地域によるちがいがあるようだ。スロヴェニアでは、クルント、クレント、コラントなどと呼ばれている。岡正雄がその著『異人その他』で紹介したオーストリア・アルプス地方の鬼、クランプスにもつながりがあるだろう。ユーラシアを横断した人々と文化に、しばし思いをはせる。
最初のスロヴェニア行きの目的は、シュコフィアロカよりさらに西、イタリアとの国境に近い町、トルミンで二〇〇〇年九月はじめ開催の世界俳句協会創立大会参加のため。シュコフィアロカから直接トルミンには行かず、イタリアとの国境に先に向かった。その国境付近の青空の純度。切り立つ山々の緑の新鮮さ。

崖なす緑の上にはただ放心の青

トルミンに着いたのは九月一日の午後。小さいが美しい町だ。ホテルの廊下で、セルビアから参加の俳人にはじめて出会う。温和そうなドラガン・リスティッチ氏とひげの濃いゾラン・ドデロヴィッチ氏である。荷物を置いてまもなく、近くのトルミンカ渓谷へ吟行に向かう。ここからが世界俳句協会創立大会のプログラムである。水が透きとおり、水しぶきが真珠のような小川を挟むのは、石灰岩の断崖。日本からの二十人を含む、十二か国およそ六十人の俳人が、断崖の裾を縫う小道を無邪気に歩く。渓流が五色に見えるところもあり、まるで別天地に迷い込んだ心地がする。

すきとおる トルミンカの水玉見えるまで

二日に講演を英語で行なったあと、大会会場を抜け出し、主催者でトルミン在住のディミタール・アナキエフ氏の運転で、深い山奥に立つ教会へと、二人だけでドライブした。石灰岩の石ころだらけのでこぼこ道を、よくここまで登り詰めたと感心する運転ぶり。

天(あま)翔(が)けるドライブで木の教会へ

無事到着したのはいいのだが、最近起きた地震で教会正面の石段は崩壊している。脇の斜面を徒歩で登った。地味な外観とは対照的に、内部の装飾は極彩色で、密教寺院にも近い感じがする。第一次世界大戦で亡くなったオーストリア=ハンガリー軍の兵士の慰霊のために建築された聖霊教会だと知る。

緑の斜面の岩のうしろに戦死の記憶

世界俳句協会創立大会は、九月三日まで、歓迎パーティー、俳句にちなんだ音楽演奏、俳句朗読、講演、シンポジウムなど、にぎやかに楽しく行なわれた。忘れられないのは、二日の夜の荒れた天候と泊まったホテルでの結婚式。

霧・雨・雷鳴そして夜通し祝婚歌

若いスロヴェニア人カップルの結婚と世界俳句協会の創立が重なったのである。この結婚式は、他の宿泊客を少しも気にすることなく、悪天候をものともせず、夜明けまで正々堂々と続けられた。

二度目のスロヴェニア行きは、ヴィレニッツア詩歌祭参加のため。これは、スロヴェニア政府がかなり力を入れている国際的行事である。二〇〇一年九月五日から九日までの全日程、私は日本人としてはじめて参加した。ヴィレニッツアとは、スロヴェニア北西部というよりは、アドリア海に近い山間部にある、大きな地下洞窟の名前。毎年、その洞窟内部で、中欧の詩歌の授賞式が行なわれ、シンポジウム、ワークショップ、朗読などが付随する。今年の大賞は、エストニアのイアーン・カプリンスキー氏。この白髪の田園詩人は、こんな俳句を、私にエストニア語と英語で書いてくれた。

林檎はまだ
林檎の木を
覚えているか

カプリンスキー氏に付き添うエストニア女性は、遠くから見ると、日本人にまちがうほどだ。本人に聞くと、アメリカ・インディアンに似ていると、しばしば言われるという。
七日は参加者全員、首都リュブリャーナに移って、シンポジウム「文学は世界を救えるか」を開く。私は円卓に座り、アメリカ中心の現在の世界を批判した。これに好意的だったのは、意外にもアメリカの詩人たち。この四日後に何がニューヨークをはじめとしてアメリカで起きるかは、誰も予想できなかった。
この日の夕方、半月が夜空に昇り始めるころ、リュブリャーナ城で、各国の詩人にまじり、俳句朗読を行なった。そのごほうびに、美しく気丈そうな、女性リュブリャーナ市長から、深紅の薔薇をいただいた。このビロードのような薔薇が完全にしおれてしまうまで、私は自分の泊まる部屋の洗面所のコップに挿して飾った。

九日に、ヴィレニッツア詩歌祭が終わり、有志がアドリア海の港町、トリエステで開催の、sidajaという詩のフェスティバルに参加することになっていた。
スロヴェニアからイタリアへ入る国境で、検問がことのほか厳しい。マンガーニという若いイタリア詩人が係官を説得して、国境を通過したあと、朗読まで時間があるので、トリエステの町をタクシーで一巡した。ローマ遺跡、世界史で習ったトリエステの公会議で有名な教会などにも立ち寄った。アドリア海の色は、南仏で見た地中海より、かなり濃く感じた。最も印象的だったのは、夕日に照らされて、勢いのいい海辺の糸杉。三本並んで見事に育っている。

照らされて吹かれてトリエステの糸杉

朗読の会場は、劇場。即興のBGM付きで、日本語、英語、フランス語、そして少しだけイタリア語で、俳句朗読をすませた。これまでで一番気持ちよく朗読できた満足感を胸に、その日の夜、スロヴェニアへ戻ろうとした。国境での検問がさきほどよりずっと厳しくなり、三十分も待たされた。そのあいだ、顔写真満載のファイルを係官がしきりにめくっていた。同行してくれたスロヴェニア女性は、そのとき私がかけていたヴェルサーチのサングラスのせいでマフィアにまちがわれたと言っていたが、ほんとうの理由は、運命の九月十一日のあとで判明した。国際テロの情報がすでに回っていたのだろう。
それでも、国境での三十分の緊張がほどけ、山間の道を数時間ドライブした。かなり円くなった月が、山々を神秘的に照らしている。

月を追う国境より山上教会へ

その後の数日は、前年に世界俳句協会創立大会が開かれたトルミンで過ごした。
九月十一日の午後、リュブリャーナの中心街にある、スロヴェニア作家協会事務所で、いくつかの行事をこなすことになっていた。アポカリプサ社で刊行されたスロヴェニア語訳『地球巡礼』のプレス・コンフェランス、俳句朗読、ラジオとテレビの取材。この日、時間がたつにつれ、会場付近は異常に静かになった。それもそのはず、あの米国同時多発テロが起きたのである。

ニューヨーク夕日に遊ぶほこり恐ろし

しかも、スロヴェニア作家協会事務所とアメリカ大使館は目と鼻の先。厳重な警戒が敷かれ始めたのである。
スロヴェニア作家協会事務所は、古い木造の館を使用しており、その一室で米国同時多発テロを知り、いあわせたスロヴェニアの友人たちと、今後の世界はどうなるかを語り合った。このときのような、友人との親密で濃密な時間は、その後、どこでも体験していない。

夏石番矢『世界俳句入門』(沖積舎、2003年)所収。

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世界俳句の共通基盤

夏石 番矢

世界俳句には、解決容易に見えてかなり解決困難な問題が多くある。この困難さには、私たちの生命そのものが深く関わっている真実が、しばしば含まれている。たとえば、単純かつ大きな疑問を挙げてみよう。すなわち、すべての人類は、「アフリカのイヴ」と呼ばれている唯一の共通祖先としての母親を持つだろうか、という疑問である。
世界俳句の共通基盤を議論する前に、人類が唯一の祖先としての母親を持つのか、複数の母親を持つのか、と考えてみるのも、無駄ではないだろう。むろん、私は人類学者ではないので、この問題に決定的な結論をもたらせない。けれども、もしも私たちが唯一の祖先として「アフリカのイヴ」を持つのなら、世界俳句の共通基盤を探し出すのは簡単になる。あいにく、もしも私たちが、「アフリカのイヴ」「アジアのイヴ」など、祖先として複数の母親を持つのなら、私たちの共通基盤を見つけ出すのは、それほどたやすくなくなる。それにもかかわらず、ある種の行動(性行為)を行ない新生児を産み出すことにより、遺伝子を交換できる程度に、私たちには共通性がある。いずれにせよ、二次的な相違を超えて、私たちはある程度、共通の何かを分かち持っている。

ところで、人間のみならず、他の動物も、眠っている夜に、一回もしくは何回か夢を見る。睡眠に加えて、夢を見る行為も、生きている動物には必要不可欠である。おもしろいことに夢は、世界中のたくさんの神話、伝説、民話において、重要な役割を果たしている。たとえば、古代エジプト人は、夢を神の啓示と考えた。後世の、ユダヤ教世界とともにキリスト教世界では、だれもがソロモンの夢やヤコブの夢を知っている。日本神話において、高倉下の見た夢が、未来の神武天皇が日本を統一するのを高倉下が助けるようしむけた。私がここで言及できなかった、他の国々の神話伝説に現れる多数の重要な夢を、おそらく皆さんは挙げることができるだろう。私は知的な現代人に古代へ帰れと勧めているのではなく、夢が人類にとって常に大切であり続けた事実に注目してもらいたいのである。
いま私は、「夢」ということばが核になった現代俳句に関心を抱く。ウィリアム・J・ヒギンソン著『俳句世界』(1996年刊)の「通年」という章から、アメリカの一句を抜き出してみよう。

restless dream
a game of hide and seek
in the graveyard
Joanne Morcom, USA

落ち着かない夢
墓場での
かくれんぼ          ジョアン・マーコム、米国

私がこの俳句に魅せられるのは、「落ち着かない夢」という表現が、私たちの人生と同じだけの真実味を持っているからである。
相原左義長と私が、世界俳句フェスティバル2000とこの世界俳句協会創立会議を記念して編集した『私たちの夢』(2000年)に集まった現代日本俳句のなかで、次の例が「夢」ということばを含んでいる。

仙人掌の棘の数ほど夢をみる      相原 澄江、日本

ゆめの中いろんなかたちがうごいてる      乾 佐伎、日本

相原澄江は、自らが見た多くの苦い夢を熟知している。幼い日本の少女、乾佐伎は、自分の見たこんがらがった夢に驚いている。たしかに、二人の日本の女性は、句作しながら、それぞれ夢の真理をつかまえるのに成功している。
最近私は、二人の俳人、米国のジム・ケイシャンとスロベニアのディミタール・アナキエフから、国際俳句雑誌「吟遊」あての十数句の俳句を受け取った。次の二句は、とりわけ夢に焦点を絞っており、私の心に深い感動を引き起こした。

Mlada trava…       The young grasses…
Planina krvari iz lema       The mountains bleeds from a helmet
Punog snova        Full of dreams
Dimitar Anakiev, Slovenia

若草
夢一杯のヘルメットから
山の出血
ディミータル・アナキエフ、スロベニア

Into my dream
The gentle rocking
of the ship
Jim Kacian, USA

わが夢のなかへ
船の
やさしい振動        ジム・ケイシャン、米国

芭蕉の有名な「夏草や」をほのめかしながら、ディミータル・アナキエフは、悲惨な戦死者をたくみに表現している。この俳句では、「夢」ということばが、戦争によって抹消された将来性ある夢を、私たちに迫真的に提示してくれる。旧ユーゴスラビアでの自分自身の戦争経験に基づき、アナキエフはこの句を作ったのだろうと推測する。彼の俳句はたしかに現実的だが、いま最も重要なのは、彼の俳句の普遍性である。旧ユーゴスラビアの戦争の具体的な細部を知らない人でも、このスロベニアへの避難者の俳句のおかげで、戦争の残酷な真実が理解できる。アナキエフの俳句において、戦争の過酷さと風景の美しさが、同時に強調された。言うまでもなく、これは決してプロパガンダ的ではない。
トルミン周辺の史跡を訪れてのち、百万人以上の兵士が死んだ第一次世界大戦の古戦場からまた、アナキエフが詩想を得たと推測する。
これらの若い戦死者の冥福を祈るため、私は一句を捧げたい。

緑の斜面の岩のうしろに戦死の記憶     夏石 番矢

夢に触れた、もう一つの感動的な俳句を、『そらの破片-防空壕からの俳句』(1999年)というアンソロジーに見つけることができた。

US-bomb Us-pakao
U de ijim snovima
Za to Srbija?

US-bomb US-hell
in children’s dreams
why Serbia?
Miroslav Klivar, Czech

アメリカの爆弾、アメリカの地獄
子供たちの夢のなかに
どうしてセルビアなの
ミロスラフ・クリヴァール、チェコ

この第二行で、「夢」ということばは、引用した俳句に登場する全部のことばのすべての相互関係の中心として働いている。さらに正確には、「子供たちの夢」は、戦争に不幸にも巻き込まれた人々のさまざまな悲惨さを、危機的に確認している。
東南ヨーロッパで作られた、これらの二句とは対照的に、ジム・ケイシャンのスマートな例句は、かなりさわやかだ。彼の「夢」は、船の癒しをもたらす動きによって、やさしくそしてのびのびとしたものになる。
このように、いくつかの言語で書かれた俳句をとおして、夢の多様で本質的な諸側面へと、私たちは到達できる。「夢」という単語、つまり無季のキーワード「夢」は、 世界俳句をすぐれて具体的に説明してくれるのである。

一つの俳句のなかで、二つの対立する原理が常に働いている。一つは、短さ、瞬間性、集中性。もう一つは、時間の持続性、連続性、流れの起伏。最初の原理の最も重要な要素は、季節に関係あるか、あるいは人間や宇宙のより根元的なことがに関係あるかを問わないキーワードである。すべての日本の季語を無価値だとして捨てることを、私は望んでいない。けれども、私たちが本当に世界俳句の時代に突入するのなら、時計にとってのグリニッジ時間のような、俳句の絶対的な中心は存在しない。
私たちの地球においては、世界俳句にとっての標準時や標準気候などありはしないのである。さまざまなローカルな特色を世界俳句のなかに含め入れながら、私たちはそれらの特色を十分楽しんでよいのである。そして、そのような個別性があるとしても、俳句が散文的で些細なものになるのを防ぐため、何らかの豊かな共通基盤が必要なのである。

現在私は、未来の世界俳句の共通基盤全体を知らないでいる。とは言うものの、「夢」というキーワードが示してくれた共通基盤の一部分は、たいへん豊かに見える。百のキーワードでも、共通基盤の全体を例示することはできないだろうが、より広がった貴重な部分を明らかにしてくれるだろう。私は再び言っておきたい。国籍、宗教、好み、趣味、年齢などの二次的な相違を超えて、私たちは共通の何かを分かち持っていると。
「見る前に跳べ!」
私たちの共通基盤はまだ展開されていないが、あちこちに存在している。したがって、私たちの共通の夢、すなわち世界俳句は、日本の俳句の輝かしい大家の一人、金子兜太の俳句が私たちに示すように、大変有望なのである。

よく眠る夢の枯野が青むまで

夏石番矢『世界俳句入門』(沖積舎、2003年)所収。

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正岡子規の俳句友だち

――河東碧梧桐と高浜虚子を中心に
夏石 番矢

1 正岡子規にとっての松山

四国の松山は、私にとってなつかしい場所である。一九九一年に、テレビ出演二回目にして、松山城のてっぺんから、小説家の胡桃沢耕史、漫画家の内田春菊、評論家の呉智英、俳人の松本恭子、司会は福留功男といった、奇想天外な組み合わせで、実況生放送の句会を行なった。選者役は、まだ三十代だった私が勤め、本丸へ登ってきた観光客に好奇の目で眺められながら、紅白の幕のなかで、肩ががちがちに凝るほど緊張しながら、なんとか数時間の番組を終えた。途中で、マイクの音声が途切れたり、緊張のあまり、私がなめらかに発言できなかったりしたことはあったが……
しかし当時、NHK松山の、とびきり若い六山ディレクターがこのように大胆な企画を立て、それが実現したことは、現在は高齢者ばかりがテレビ出演するNHKの俳句番組では考えられない。それだけ、俳句も、日本も、老化してしまったということだろうか。
高齢化社会が来ることは、つまりはお年寄りが長生きできるわけだから、大変よろこばしいのは無論だし、ヨーロッパの先進国は、ずっと前からそうなっている。私が二年暮らしたフランスも、以前から高齢化を迎えていた。けれども、お年寄りは、自立して暮らしており、たとえば、買いだめした、食料などの日用品を入れた、重い買いものかごも、男女を問わずひとりで、かごに付いた小さい車の助けを借りて歩道を転がし、店から自宅アパートまで、持ち帰っていた。それがごく自然な光景だった。
日本のように、高齢化が進んだことにとまどってばかりいて、社会全体が、まっとうな対策が立てられず、いたずらに硬直化し、そのうえ柔軟な発想を認めなくなるのは、決して先進国として望ましくないのは、言うまでもないことである。
話をもとに戻すと、実を言えば、この番組出演のときが、松山への最初の旅だった。この五月の松山訪問は、うれしいことに晴天に恵まれた。お城の堀端の栴檀の薄紫の花が、小さいながらも、とても印象的だった。また、木々の青葉若葉、日の光ののびやかさ、風の穏やかさも、快い印象として残っている。

春や昔十五万石の城下哉

『寒山落木』明治二十八年(一八九五年)の「春時候雑」に収められているこの、正岡子規による、のどかな俳句を、私は俳句初学の十代のころより、ひそかな愛唱句としてきた。同じ瀬戸内の姫路の中学と高校に通っていた私は、この「城下」を、姫路に置き換えて、どこかしっくりしない気持ちを抱えながら、納得しようとしていた。いや、納得したと思い込もうとしていた。
松山を訪れ、その城下町を初めて訪れてみて、やがて南国松山のくつろぎこそが、子規がこの俳句で訴えたかったのだとわかった。姫路では、町が大き過ぎ、お城が大作りであり、気候もまだうすら寒いのである。

子規は、同年四月二十四日に、

春や昔古白といへる男あり

を作り、『寒山落木』の、先ほどの句の少し前に、入れている。このころ子規は、「昔」をよほど振り返っていたにちがいない。
調べてみると、のどかな春の城下町を詠んだ明治二十八年は、いまから百六年前であり、この一八九五年、子規は、日清戦争に従軍する途中、覚悟を決めて三月中旬に一時帰郷し、墓参している。
「十五万石の城下」は、もちろんお手軽な観光俳句ではなく、自分の生まれ育った松山を、短い俳句によってまとめあげ、戦死すら予想していただけに、ひいては松山への別れの俳句であってもよいと考えていたのではないだろうか。
「はるやむかし」の六音の出だしが、通常の五音の出だしより、いっそうのどかさをつのらせて効果的だ。こののどかさこそは、死をも折り込みずみの正岡子規にとっての、松山そのものだったように思える。
中規模の、穏やかで、権威主義的ではない、文化的な町、松山。

2 「常春(とこはる)」の松山人、子規と碧梧桐

松山原人という、新種の原人が、発掘品の捏造でもしないかぎり、存在するわけはないだろう。かりに日本に、明石原人がいたとしても、現在の日本人の祖先ではないようだ。北京原人がたぶん、現在の中国人の祖先ではないように。また、ネアンデルタール人が、現在のヨーロッパ人の祖先ではないように。日本人は、北から南から、あちらこちらからやってきた人間たちの混血から生まれた民族にすぎない。
それでも、松山に生まれ育った人々の性格には、やはり共通の特徴があるようだ。
ここに、新聞記事の切り抜きがある。読売新聞の今年の三月八日夕刊の「旅」というコラム。カラー写真で、道後温泉と松山城を紹介し、市原尚士記者の署名入りの文章に、こんなくだりがある。

天災が少なく、気候も温暖な松山に住む人は、どうも性格も温和な人が多いようだ。
(中略)
未来のみを見つめた楽天家。これほど、松山人の明るさとゆとりをうまく言い当てた言葉があるだろうか。

これは、現在も私につきあっていただいている松山の諸俳人の性格にぴったりあてはまる。やはり、うれしいことに松山は松山なのである。
正岡子規が、河東碧梧桐にあてて送った俳句に、

寒からう痒からう人に逢ひたからう

という、のちの自由律俳句の先触れのような一句がある。この俳句は、明治三十年(一八九七年)に、碧梧桐が、天然痘にかかって入院するのに、子規がお見舞いとして作ったものだ。
二年前の日清戦争従軍の帰路さらに喀血し、病床から離れられなくなった重病人の正岡子規から、天然痘の新米病人の河東碧梧桐への、実にまこごろのこもった、しかも明るい挨拶俳句である。
ここにまず、典型的に明るく、楽天的な松山人、正岡子規のありようを、見て取ってよいだろう。なんと子規は、この五年後に他界するのである。
ところで、河東碧梧桐と高浜虚子の二人の後輩のうち、碧梧桐の俳句の才能を、より高く評価していたことは、よく知られている。
河東碧梧桐の全集が、正規の出版社から刊行されいてない現在、私は全句集を持っていても、碧梧桐の全貌を知らないとしか言えない。財政豊かな愛媛県が、賞金額だけ大きい俳句の賞に、選考結果も明確にせず、精力を浪費するよりも、河東碧梧桐の全集を、一日も早く発刊されることを切望する。
それはさておき、私は碧梧桐の俳句のうち、

我が踏むこの石このかけらローマの春の人々よ

が、とくに好きだ。
大正十年(一九二一年)に、欧米旅行のさいに、古代ローマ帝国の首都あとで詠まれた一句である。
おもしろいことに、この長い俳句は、春の松山を、従軍直前に必死で詠んだ正岡子規の俳句を思わせてならない。
子規の句の「城下」と、碧梧桐の句の「ローマ」の「石」。そして、偶然にも両句とも、季節は「春」である。
さらに、子規の、最初のフレーズには六音の破調。自分の傘下の俳人たちから、自由律俳句出現後の碧梧桐の句は、四・四・五・七・五音。
子規も、碧梧桐も、のちの高浜虚子によって固定される「有季定型」の窮屈さを、のびのびと松山人らしく超えて、自分の思いを十分詠み切っている。その見事さよ。
碧梧桐の俳句の、「春の人々」とは、碧梧桐滞在時のーマで見かけられた人々、そして古代ローマ全盛期の人々を表わし、そしてほんとうのところは、南国松山の人々のことを、思い出して表現しているのではないだろうか。
「常夏」にひっかけて、松山の人々を、ついつい「常春(とこはる)の人々」と呼んでみたい気になる。

3 虚子の過剰防衛、碧梧桐の淡白

日本が、バブル経済の、奢りの夢に、つかのま酔いしれていた一九八〇年代、「高浜虚子へ帰れ」という号令が、起床ラッパのように、日本の俳句界に鳴り響いた。
私は、子規や碧梧桐の俳句と同じように、虚子の句にも十代のころより親しみ、愛唱句が少なくないが、右へならへの号令をなによりも、当時憎んだ。
バブル期の日本俳壇で利用された高浜虚子もまた、松山市内を幼いころ、離れたとしても、松山人であることは疑いない。おだやかな松山の大空が下敷きになった俳句を、松山を離れ首都圏で暮らした虚子は、つねに追い求めた。

大空に又わき出でし小鳥かな 一九〇六年
大空に羽子の白妙とどまれり 一九三五年
浅き春空のみどりもやゝ薄く 一九四六年
ほどけゆく一塊の雲秋の空 一九五七年

虚子は、決して過激な人ではない。また、勇敢な人ではない。だから、温和な人間が、はからずも俳壇のリーダーになったとき、新しい流動的な状況や、個性的な人間に対しては、おびえて、過剰防衛してしまう。
虚子は、自己防衛本能が人一倍発達しているだけに、明治二十八年(一八九五年)、正岡子規から、俳句の後継者に要請されたとき、拒絶してしまう。
後年、杉田久女や日野草城を、「ほととぎす」同人から除名したのもまた、自己防衛本能からであろう。
もともと温和で、煮え切らなず、自己防衛的な性格も、松山人の長所でもあり、短所でもある。虚子にあらわれた、この特徴を正岡子規は、熟知しており、若いころより、真剣に忠告していた。
これに対して、碧梧桐は、冒険的で、才気にあふれていた。しかし、温和で粘り強さに欠ける。したがって、碧梧桐は、あっさりと昭和八年(一九三三年)、俳壇を引退したのである。
この碧梧桐の性格も、松山人的なキャラクターだろう。このことも、正岡子規は明確に知っていたようだ。

4 「常春(とこはる)」の豊かな人間関係

正岡子規の残した俳句のうち、私は、

月一輪星無数空緑なり

という、明治三十年(一八九七年)作の一句を、こよなく愛する。これは、単なる写実の俳句でもなく、また単なる空想の俳句でもなく、すなわち『俳諧大要』で子規が俳句の究極として想定した「非空非実」の観点から生み出された名句だ。おそらく、痛み止めのモルヒネを打たれて、なかば夢うつつの正岡子規が、生命の本質を、ふと短いことばでつかんだ、そういう俳句である。
この俳句の英訳は、次のとおりである。この英訳は、私とアメリカ人翻訳家エリック・セランドの共訳。

Around the lone moon
countless stars
the sky now green

この俳句を、日本語と英語で、昨年八月末に英国のロンドンで開催された、世界俳句フェスティバル二〇〇〇で紹介したところ、日本(これも正岡子規の遺徳のおかげだろう。日本からは、相原左義長ら、松山からの参加者が最も多かった)と英国はもとより、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スロベニア、ハンガリーなどから、参加した俳人や研究者たちからよい反応が返ってきた。
私は、宇宙にも、月や星という生命があふれ、天空全体に、地上の緑までが、なだれこんでいるのは、写実を超えた、宇宙の本質把握が、子規によってなされているためだと、英語で説いた。
真夏というよりは、永遠の春、「常春(とこはる)」の緑を、子規はこの句でしっかりつかんだ。
瀕死の病床にありながら、生命への積極的な意志を持ち続けた正岡子規。そこに私は、松山人の楽天性が基盤になってできた、美しく、柔軟で強固な、新しい人格の出現を見る。
この奇跡的な病人に、碧梧桐、子規、内藤鳴雪などの近代俳人のみならず、伊藤左千夫、岡麓などの、近代短歌の育成者たちが、集まってきても、何の不思議も感じない。あるいは、英国留学中の、のちの小説家、夏目漱石が、深い友情を子規に対して、海を超えて抱き続けたことも、当然のこととして受けとめられる。
近代日本において、文学以外のジャンルで頭角を表わす人々、たとえば、ジャーナリストの草分けであり、子規のパトロンでもあった陸羯南、洋画の中村不折、数学の寺田寅彦などが、自然に寄り来たるのも、自然にうなずける。
この永遠の青春、「常春」を生きた子規は、絶えることのない、のびやかな「常春」の豊かな人間関係を、百年のときをへだてても、私たちに、にこやかに示してくれているのである。

季刊「子規博だより」Vol20-4(松山市立子規記念博物館、2001年)所収。

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ドイツ俳人へ

(2001年6月3日、ドイツ、フランクフルト)

夏石 番矢

本日は、第七回ドイツ俳句協会会議にお招きくださいまして、まことにありがとうございます。
六月は、日本では、じめじめした梅雨という雨季ですが、ヨーロッパでは、さまざまな花が咲き乱れ、晴天に恵まれ、昼の時間の長い、一年中で最もすばらしい季節であります。こういう時候に、この会議を設定されましたことに、ドイツの皆さんの俳句への深い愛情を感じ取らせていただきました。
また、今回でこの催しが、七回を数えるにいたりましたことに対して、ビュアシャーパー会長をはじめとするドイツ俳句協会の方々、またシュヴァルムさんを旗頭とするフランクフルト俳句サークルの方々に、心からの敬意を表明したいと存じます。
さて、俳句はその生まれ故郷日本のみならず、ご当地ドイツはもとより、世界各国に広がりつつあります。
近年の主な国際的な俳句会議を列挙しますと、1999年七月、ノストラダムスの予言ははずれ、地球は破滅せず、日本の首都で、国際現代俳句シンポジウムが開かれ、昨年四月にはアメリカで、グローバル俳句フェスティヴァルが、また八月にはイギリスで、世界俳句フェスティヴァル2000が、九月にはスロヴェニアで、世界俳句協会創立会議が、いずれも成功裏に開催されました。
これらの会議を通して、俳句は、それぞれの文化に根ざし、それぞれの言語の特質を生かしながら、より新しい可能性をはらんだ短詩として、考えられるようになってきています。
この二月にフランスのブルターニュで行われました、雑誌「hopala!」主催のフランス語、ブルトン語、ガロ語(gallo)による俳句コンテストには、文学的に質の高い俳句が寄せられ、フランス語子供部門の第一位は、1988年生まれの、エリーズ・タンギー(Elise Tanguy)さんという名前の少女の、

Dix mille ans plus tard
Les mégalithes attendent encore
Le soleil et la lune

一万年後
巨石はなお待つ
太陽と月

に与えられました。審査員を務めました私も、このコンテストの総責任者であるアラン・ケルヴェルヌ(Alain Kervern)氏も、予想を超える成功に驚き、かつ満足しています。
ちなみに、ケルヴェルヌ氏も、フランクフルトの現代俳人マルティン・ベルナー氏も、国際現代俳句シンポジウムのパネリストでした。
ところで、巨石というテーマが、この俳句コンテストの課題の一つでしたが、ここにコンテストの成功の秘密が潜んでいます。
ケルト人以前の先住民による巨石遺跡が、ブルターニュのあちこちに残っています。最も有名なのが、カルナック(Carnac)にいくつかある巨石列(alignement)です。
この巨石列は、花崗岩でできており、太陽や月の昇る方角と沈む方角に合わせて、メンヒルが並べられています。
現代人は忘れがちですが、巨石は私たちよりずっと長い一生を生きているのです。
ケルト時代のヨーロッパでは、大きな木や大きな岩、水の湧く泉、太陽や月、大地などが、崇拝されていました。アニミズム的信仰です。エリーズ・タンギーさんの俳句は、古代ケルト人にも通じる、巨石への恐れと尊敬の思いを、短いことばで印象的に描き、私たちが宇宙内部に短い生涯を送る生き物だということを、感動を伴って教えてくれます。
19世紀ドイツに花開いたロマン主義は、巨石や大樹を描いたカスパル・ダーフィット・フリードリッヒ(Caspar David Friedrich)の絵画が端的に示すように、ゲルマン的伝統とともに、ケルト的伝統を再発見したとも言えましょう。
他方、私たち日本人には、タンギーさんの巨石への畏敬の念は、とりわけよく理解できます。と言いますのも、現代日本においても、大きな岩が神として崇拝されたり、古木が神の樹木として尊敬されたりしているのです。日本の神社をご覧になった方には、日本でのアニミズム的伝統がおわかりいただけるでしょう。
ブルターニュ地方では珍しくない巨石から、ブルターニュ地方にだけ理解される俳句が作られたのではなく、私たち人間に共通する宇宙的な思いが宿った世界的、宇宙的俳句が生まれたことに注目したいのです
最高の俳句には、身近なものを大宇宙へと広げる不思議な力がそなわっていると、タンギーさんの俳句は静かに語っています。
アニミズムは、未開人の劣ったメンタリティではなく、多様で矛盾に満ちたこの世界を包容力豊かに受け入れることのできる、二十一世紀の多元的文化に必要とされる人類文化の共通基盤だと、私は考えています。
とくに俳句のような短い詩が、いきいきとした世界を作り出すには、大きなものから小さなものにまで、深い共感をもって描くことが大切となります。それはまさしく、アニミズム的共感でしょう。
昨年私は、世界俳句フェスティヴァル2000開催を記念して、小さい国際俳句アンソロジーを編集し、出版してみました。18か国85俳人の俳句を、そこに集めることができました。
そのアンソロジー『多言語版 吟遊俳句2000』(Multilingual HAIKU TROUBADOURS 2000)に寄稿してくださった、フランクフルトの俳人の俳句のうち、マルティン・ベルナー氏の、

kann einen rühren
das magere einsame
Schneeflöckchen

私に触れられるだろうか
やせたひとりぼっちの
小さい雪の華

に、微小の雪の結晶への、深い共感と愛を見つけ、読者としての喜びを感じました。

また、エリカ・シュヴァルムさんの、

Sonnenfinsternis.
Ein Wasserfloh spaziert
über den Algenteich.

日食や
ミジンコ歩く
藻の池を

に、不思議な宇宙を発見できました。この「水蚤」(Wasserfloh)は、肉眼ではよく私はまだ見えませんが、なにかとても愛らしい小生物として、心に残るのです。
生け花を通じて、日本的アニミズムをシュヴァルムさんは、学ばれたのかも知れません。ときには、竹や蘭を残酷に切り刻みながら、シュヴァルムさんは、竹や蘭に第二の生命を与えているのでしょう。
季語を入れて、必ず5・7・5音でなければ、俳句ではないという、狭くて古い俳句の概念は、日本でもくずれつつあります。
全世界に通用する新しい俳句の定義はあるのか、という大問題が、21世紀はじめの私たちにまさに提出されていますが、それは、ドイツ俳人の皆さんの俳句観を、よくうかがってから、議論したいと思います。
俳句を作り、味わう、楽しさを損なわない、建設的議論が、この会議において十分行われることを、大いに期待しております。
ご清聴ありがとうございました。

夏石番矢『世界俳句入門』(沖積舎、2003年)所収。

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俳句をとおして本当に東洋と西洋は出会ったか?

夏石 番矢

西洋人は本当に俳句に遭遇したのだろうか? この重要な問題を前にして、私に鳴り響く答えは、同時に「はい」と「いいえ」である。この曖昧さは、ほとんどの西洋人が翻訳を介在させてしか俳句に遭遇していないという事実に由来する。私たちの世界では、翻訳が必要不可欠だとしても、いわゆる「俳句詩人」と自称する人は、どうして日本語を学ぼうとしないでいられるのだろうか? 数年前のヨーロッパで、ある俳句の国際的行事の最中に、私はひとりの老人に尋ねてみた。「どうして俳句をもっと知るために、日本語を勉強しないのですか?」彼はこう答えた。「年を取り過ぎているからできないのさ」私は会話をそこで終わらせた。
この東洋と西洋の質疑応答を、皆さんはどう思われるだろうか?
まず最初に、不幸なことに、海外の俳句についての情報はつねに正確ではないと言わなければならない。ときには情報が奇妙なので、私が笑ってしまうこともある。
英語で俳句を書く人たちのバイブルは、R・H・ブライス(一八九八~一九六四)著の『俳句 第1巻~第4巻』(北星堂、日本、一九四九年~一九五二年)である。私が学生のころ、このバイブルを買ったのだが、すぐに東京の古本屋に売り飛ばしてしまった。なぜなら、ブライスが、俳句の詩学を無視して、日本精神の典型と彼が信じるものを、俳句においてあまりに誇張しているからだ。
二十年後、英語で書かれる俳句に親しめば親しむほど、ブライスの著作の直接的間接的影響を見つけるようになった。このインターネット時代に、書店のサイトを通じて、ブライスの俳句についての本をまた買うことになった。
ブライスによる俳句のバイブルとの再会をまずは喜んだあと、そのなかの一節を読んで、私は笑いはじめてしまった。ブライスは、『俳句 第1巻』(一九四九年)で、芭蕉の俳句を次のように引用している。

無私であることの条件とは、ものごとが、利益になるか不利益なるかという関連なしに、見えることである。たとえ、深遠で精神的な種類の関連でさえいらない。
神を愛する人は、神が見返りとして自分を、ひいきして特別な愛着を示して、愛してくれることを望みはしない。
霧時雨富士を見ぬ日ぞおもしろき                  芭蕉

Misty rain;
Today is a happy day,
Although Mt. Fuji is unseen. Bashô

日本語が理解できない人たちには、この一節はかなり納得できるだろう。日本の学者も、このブライスの解釈をほめている。
学者としても詩人としても、私は芭蕉の俳句を、この句に芭蕉が選んだ日本語の繊細な一語一語をもとに、分析してみたい。最初の日本語「霧時雨」は、ブライスの翻訳にあるような「霧雨」ではなく、「濃霧」を意味している。だから、この句の最初のことばからして、私たちは突然、視界を失う。芭蕉のこの意外なわざは、私たち読者を驚かせる。二番目のことば「富士」は、日本で一番高く、一番有名な山。このことばは、私たちをくつろがせ、元気付けてくれる。それから、次の「見ぬ」は、見えないということで、調子がまた変化する。このことばは、富士山の美しくはれやかな景色を打ち消してしまう。「見ぬ」に続くことば、「日」は、一日を指している。最後のことば、「おもしろき」は、形容詞であり、今度はそれまでの否定的な調子とは正反対である。全体として、この俳句において芭蕉は、富士山を見られない一日も、自分にとっては興味深い、と言っている。
この俳句は、芭蕉の句の最高作ではないが、それでも、いくつかの要素(瞬間)と変化を含んでいる。これらを、ブライスは見逃したか、強調しなかった。
もう一方で、この短詩は、「無私」を伝えてはいない。「無私」は、ブライスが考えたように、日本の古い精神性、禅につながる。
世界で、自己のない詩人はいるだろうか? たとえ、詩人が「無私」に到達するとしても、たくさんの自己、別の言いかたをすれば、エゴの諸段階を通り抜けてはじめて、実現する。
芭蕉は一六八四年、彼の中年期に、さきほど引用した句を作った。「無私」とはほど遠い時期だった。考えても見よ、何かがおもしろく感じる人間は、「無私」ではありえない。さらには、芭蕉は、生涯のそのとき、俳句創作の新しい方法を発見するため苦闘していた。
R・H・ブライスが、日本の古い精神性を見つけたのは、私たちにとっての幸福である。たしかに、日本文化のある部分は、禅に基づいている。しかしながら、禅による説明という先入観の視点から俳句を受け取ることは、キリスト教の視点から、西洋の詩を受け取ることと同じではないだろうか? こういうふうに考えるならば、西洋人は、ブライスの先入観に賛同できるだろうか?
『俳句 第1巻』に引かれた俳句に話を戻せば、私たちの日本古典俳人は、富士山が見えない日がおもしろい、とい言っているのではなく、富士山が見えないけれども、富士山を心のなかで想像できるから、その日はおもしろい、と言っているのである。R・H・ブライスは、芭蕉の俳句を誤解し、誤訳した。
英語圏の人々のみならず、西洋人に俳句を広めたブライスの功績をけなすつもりはない。だが、ブライスの日本の俳句の誤解と誤訳は、単純化しすぎた視点に根があり、ときどき日本の詩歌の的をはずことがある。
ブライスによる『俳句 第1巻』の序文に、「禅と詩歌は実質的に同義語だと私は理解している」とあり、これが西洋世界への俳句受容を誤った方向へ導き、今日にいたるまで、ゆすぶることのできない、拭い去れない悪影響を残した。ブライスのこのような単純すぎる俳句理解は、彼の師、ひとりの日本人仏教者、鈴木大拙(一八七〇~一九六六)から来ている。20世紀の日本の禅の大家は、俳句を含む日本文化を、禅仏教の観点から、大胆に西洋世界へ紹介した。俳句創作における禅の役割の誇張を、ブライスは、自分の師、鈴木大拙から学んだ。この禅の大家は、「禅と俳句」というエッセイで、次のような誇張を書いている。

仏教を離れて、日本文化を語ることはできない。日本文化のどの発展の局面においても、さまざまなあらわれかたで、仏教的感情が存在するのがわかる。
(Zen and Japanese Culture, MJF Books, USA)

私はこの主張に部分的に賛成しながら、日本文化に、アニミズムという背骨があることを強調し、ふたたび書き入れておきたい。現代においてさえ、わが国にアニミズムの伝統が存続している。東京の道路のまんなかにある、高くて古い木に、人々は畏敬の念を持つ。だから、こういう木は、悠々と立っていられる。私の住む富士見市を歩き回っていると、高い木々でおおわれた神道の神社を、簡単に見つけられる。
日本のアニミズム的伝統の、より広くて影響力の強い重要性を知らずに、R・H・ブライスは、鈴木大拙の教義を素朴に信じた。ブライスは、鈴木大拙のいいお弟子さんだった。幸か不幸か、ブライスは、後続世代の詩人にかなりの影響力を及ぼした。ブライスのおかげで、俳句は、短詩ではなく、神秘的で単純化されたことば遊びとなってしまった。一九五五年に、ブライスの『俳句 第1巻~第4巻』を読んだあと、米国のビート詩人、アレン・ギンズバーグ(一九二六~一九九七)は、「四つの俳句」を書いた。そのうちのひとつを次に引こう。

Lying on my side
in the void:
the breath in my nose.

空虚のさなか
脇腹を下にして寝て
息が鼻のなかに

(Collected Poems 1947-1980, Harper & Row, USA, 1984)

この短詩を書きながら、ギンズバーグは、日常生活のなかの一瞬間をとらえた。しかし、この瞬間が本当に大切なのかどうかという疑問が残る。
この短詩によって、ギンズバーグは、自分の生きているからだの通常の働きを再認識した。だが、この俳句は心に響くだろうか? ささいな発見以外の何かを、私たちに思い浮かべさせられるだろうか? ギンズバーグによって書かれたこの三行は、中軸のない沈黙に支配されている。
日常生活に、ささいな美やささいな真実を見つけるのが、20世紀の詩の特徴かもしれないが、ずっとささいなままの、ささいなものは、本当の詩の主題ではない。

ところで、R・H・ブライスや鈴木大拙との関係を私は知らないのだが、著名なフランスの批評家ロラン・バルト(一九一五~一九八〇)は、『記号の帝国』(L’Empire des signes, Editions d’Art Albert Skila, Swiss, 1970)のなかで、俳句に奇妙なかたちで触れている。

俳句(線分)は、直接的な動きで「あれ!」とだけ言いながら、何にせよ指で指し示す子供のしぐさを表
現する……俳句は何も特別なことを言わない、これは禅の精神に合致している……

この本には、日本文化についての鋭い指摘も見られるのだが、バルトの俳句理解は、極端なまでに異様だ。バルトは、鈴木大拙やR・H・ブライスの間接的な弟子だろう。
バルトは、正岡子規(一八六七~一九〇二)のこの一句を、「絶対的なアクセント」と見なしていた。日本語の原句、バルトの本にある長い仏訳、そしてこの講演のために作った短い英訳を引いてみよう。

牛つんで渡る小舟や夕しぐれ

Avec un taureau à bord,
Un petit bateau traverse la rivière,
A travers la pluie du soir.

A cow on board
a little boat traversing―
autumn evening rain

どうしてロラン・バルトは、このような平凡な俳句に興味を持ったのだろうか?
バルトにとって、日本の俳句は、束縛された古い西洋文化から自由な子供でなければならなかった。彼にとって、俳句は、意味でいっぱいの長い西洋の詩と正反対でなければならなかった。バルトは、俳句が短すぎて、意味を内部に含めないと考えた。バルトの俳句理解は、鈴木大拙やR・H・ブライスと同様に、過剰に単純化されたものだった。違いは、フランスの有名な批評家、ロラン・バルトが、俳句に意味を与えることを禁じて、俳句を極度に単純化し、不毛にして、俳句を、西洋文化からの逃避の悲鳴として、私たちに投げ出したことだ。言うまでもなく、俳句は、意味から逃れられはしない。日本人を含む人類は、意味のない表現に耐えられない。表面的にナンセンスに見える表現も、人間のあらゆる発語において、なにがしかの意味を伴っている。

いま私は海外の俳句創作を否定しているのではない。それどころか反対に、多くの言語での俳句の可能性を確信している。そのような豊かな可能性を実現するには、西洋の俳句理解に、深まりをもたらさなければならない。俳句は仏教の詩ではない。俳句は意味から逃れられない。何よりもまず、俳句は詩のエッセンスでなければならない。俳句の小宇宙のなかに、私たちは大宇宙を見ることができる。たった一句の俳句も、いくつかの要素(瞬間)といくつかの変化からできているのは、先ほど引用した芭蕉の俳句で目撃したとおりである。

私が若かったころ、西洋の詩を学び、俳句を書いていた。私は新しい俳句創作方法を発見しようと試みた。

階段を突き落とされて虹となる

Shoved off the stairs―
falling I become
a rainbow
(A Future Waterfall, Red Moon Press, USA, 1999)

もちろん、この俳句を、仏教的ベースから書いたわけではない。たぶん、あるつらい経験を昇華させようと、このような俳句を書いた。この句の初案は、次のとおりである。

階段を突き落とされて貝となる

Shoved off the stairs―
falling I become
a shell

あなたにとって、「虹」と「貝」のどちらがいいだろうか?
日本語では、「貝となる」は、「沈黙を守る」という意味。かなり陳腐な表現だった。「虹」が「貝」にとってかわるやいなや、この俳句全体が、火花を放ち始める。この俳句は、予想外の要素(瞬間)や変化を内部に持つようになる。この昇華は、私の信じる俳句詩学の核である。

すぐれた詩人たち、たとえば、スウェーデンのトマス・トランストロメール(一九三一~ )、ポルトガルのカジミーロ・ド・ブリトー(一九三六~ )が、それぞれの言語で、俳句を書いている。いずれも、その国を代表する詩人で、国内のみならず、国際的評価が高いが、日本ではほとんど知られていない。
まずは、トマス・トランストロメールの思索的な俳句を見ておこう。

The white sun’s a long-
distance runner against
the blue mountains of death.

白日の長
距離走者が
死の山脈を背景にして

The presence of God.
In the tunnel of birdsong
a locked seal opens.

神の存在
鳥の囀りのトンネルに
封印が開かれる
(New Collected Poems, Bloodaxe Books, UK, 1997)

半身不随のため、もう口をきけなくなったこの詩人と、二〇〇三年に、私はマケドニアで出会った。ストゥルーガ詩歌の夕べにおいてであった。この詩人が、多くの詩人から敬愛されているのを肌で感じた。
もう一人の詩人カジミーロ・ド・ブリトーは、私の親友だ。彼の俳句に、南欧の底抜けの明るさと虚無主義の共存が見られる。

De canto em canto
vou caindo
no charco do silencio.

De chant en chant
je tombe
dans l’étang du silence.

歌うにつれ
沈黙の池へ
落ちてゆく
(intensités intensidades, l’arbre à paroles, France, 1999)

これはポルトガル語とフランス語対訳詩集の一句。おそらく芭蕉の「古池や」にヒントを得て作られたものだろう。

Poeta audacioso―
ousa decifrar as sombras
da luz original

Poète audacieux ―
il ose déchiffrer les ombres
de la lumière originelle

An audacious poet―
he dares to decipher the shadows
of pristine light

大胆な詩人
原初の光の
影を読み解く
(HAIKU PARA KISAKO, in Ginyu No. 26, Japan, 2005)

こちらは、私が発行する国際俳句雑誌「吟遊」に、ポルトガル語、英語、フランス語、日本語の四言語で発表された俳句。詩人の役割に対する自覚を力強く詠んでいる。

これらの高度な作品は、まだ少数であり、俳句創作や俳句が、それぞれの国々で、広く深くは認知されていないかもしれない。
いま俳句は、おもに異国趣味がもとになって、受け入れられているのかもしれない。表面的な異国趣味は、単なる一時的なひまつぶしにすぎない。けれども、深められた異国趣味は、何か新しくて、貴重なものをもたらしてくれるにちがいない。俳句の詩学が、多くの国でよく知られるようになったならば、俳句はよりいっそう受け入れられ、詩としての実体を持った短詩、国内と海外の賞賛にふさわしい短詩を生み出すだろう。これが、まさしく「世界俳句」という私の理想である。

本稿は、第三回世界俳句協会大会(二〇〇五年七月十五日~十八日、ブルガリア開催)のための講演原稿(原文は英語)の和訳に加筆したものである。

夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句2006』(七月堂、2005年)所収。

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